五月四日  ― 渋民 ― 青森 ―


 

 日は暖かく、風少しく袂を払ふ日なりき。

朝起きて見れど、米田君よりも畠山君よりも消息なし。我妻は、山路二里、畠山君を訪へり。予は妻の心を思ふて思はず感謝の涙を落しぬ。

 十二時頃、我が夜の物を質に入れて五金をえつ。懐中九円七十銭なり。家には一厘もなし。これ予と妹との旅費也。乏しき旅費也。米田君より出づべきものを以て、予が立てるあと当分の間の老母が命をつながむと決せる也。あゝ危いかな。

 予立たば、母は武道の米田氏方に一室を借りて移るべく、妻子は盛岡に行くべし。父は野辺地にあり。小妹は予と共に北海に入り、小樽の姉が許に身を寄せむとす。

 一家離散とはこれなるべし。昔は、これ唯小説のうちにのみあるべき事と思ひしものを…………。

 午后一時、予は桐下駄の音軽らかに、遂に家を出でつ。あゝ遂に家を出でつ。これ予が正に一ケ年二ケ月の間起臥したる家なり。予遂にこの家を出でつ。下駄の音は軽くとも、予が心また軽かるべきや。或はこれこの美しき故郷と永久の別れにはあらじかとの念は、犇々と予が心を捲いて、静けく長閑けき駅の春、日は暖かけれど、予は骨の底のいと寒きを覚えたり。

 啄木、渋民村大字渋民十三地割二十四番地(十番戸)に留まること一ヶ年二ヶ月なりき、と後の史家は書くならむ。

 役場に至りて、人々と別れつ。人々は皆、二週の後予必ず一旦帰り来べきものと思へり。然れども、この事恐らくはあらじ。予は悲しかりき。工藤千代治、立花勘次郎の二君五十銭の餞別を賜はりたり。

 妹は先に老爺元吉と共に好摩に至りてあり。二時四十分頃二人は下り列車に乗りつ。刻一刻に予と故郷とは相遠かれり。

 車窓の眺めはいと美しかりき。渋民の桜は漸やく少しく綻びしのみなりしを、北にゆくに従ひて全開なるが多し。三戸のステーションに着ける時、構内数株の桜樹、既に半ば散落して、落葩地に白きを見ぬ。渋民ほど世におくれたる処はなしなど思ひぬ。車窓より手の届くばかりの所に、山吹の花いと沢に咲けるもありき。

 夜九時半頃、青森に着き、直ちに陸奥丸に乗り込みぬ。浮流水雷の津軽海峡に流るゝありて、夜間の航海禁ぜられたれば、翌午前三時にあらでは出港せずといふ。

 夜は深く、青森市の電燈のみ眠た気に花めきて、海は黒し。舷を洗ふ波の音は、何か底しれぬ海の思ひを告げむとするにやあらむ。空は月無く、夜雲むらがりて、見えつ隠れつする星二つ三つ淋しげに、千里の外より吹き来る海風は、絶間もなく我が袂を払って、また忽ち千里の暗に吹き去れり。予は一人甲板に立ちつくしつ。陸も眠り海も眠り、船中の人も皆寝静まれるに、覚めたるは劫風と我とのみ。雲に閉ぢたる故郷の空を膽望して、千古一色の夜気を胸深く吸へば、噫、我が感慨は実に無量なりき。この無量の感慨、これを披瀝するとも、解するもの恐らくは天が下に一人も無けん。

 予は跪きつ。浩蕩たる夜天に火よりも熱き禱を捧げたり。とぢたる目に浮ぶは、浅緑の日暖かき五月の渋民なり。我涙は急雨の如く下れり。

 あゝ、故里許り恋しきはなし。我は妻を思ひつ、老ひたる母を思ひつ、をさなき京子を思ひつ。我が渋民の小さき天地はいと鮮やかに眼にうかびき。さてまた、かの夜半の蛙の歌の繁かりしなつかしき友が室を忍びつ。我はいと悲しかりき。三等船室の棚に、さながら荷物の如く眠れるは午前一時半頃にやありけむ。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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