五月三日


 

 朝早く起きたり。八時頃金矢家を訪はむとて家を出づ。遠近の山々の蕪荑、云はむ方なく春の日に仄めき匂へり。春の山、春の水、春の野、麦青く風暖かにして、我が追憶の国は春の日の照らす下に、いと静かに、いと美しく横はれり。北上川の川岸の柳、目もさむる許りに浅緑の衣つけて、清けき水に春の影を投げたり。

 サテ浮世は頼みがたきものなりき。金矢家も亦浮世の中の一家族なりき。餞別として五十銭貰ひぬ。予は予自らを憐れむと共に、かの卑しき細君、その細君に頣使せらるゝ美髪紳士を憐まざるをえざりき。昨日我を歓待すること、かの如くして、我何事の悪事をなさざるに、今日はかくの如し。勝てば官軍敗くれば賊、……否々、予は唯予の心に味方を失はずば、乃ち足るのみ。

 岩本、沼田清民、秋浜善右エ門諸氏より一円宛餞別として送らる。

 予は今日遂に出発するをえざりき。

夜ひとり堀田女史を訪ふ。雨時々落し来ぬ。程近き田に蛙の声いと繁し。あはれ、この室にしてこの人と相対し、恁く相語ること、恐らくはこれ最後ならむと思へば、何となく胸ふさがりて、所思多く、予は多く語るを得ざりき。友も亦多く語らざりき。誠に、逢ふは別るゝの初めならむ。しかれども、別るゝは必ずしも逢ふの初めならざらむ。予は切に運命を思へり。

 胸を拱ぎて蛙の声をきく。この声は、予をして幼き時を思出さしめき。又、行方の測りがたきを想ひ廻さしめき。さながらこれ一種生命の音楽也。

 人、心のそよげる時、楽しき事を思ひ、心の動かず鎮まれる時、必ず哀しき事を思ふ。喜びを思ふて心厳かなるはなく、哀しきを思ふて心浮き立つことなし。悲哀は常に厳粛也。噫、涙は決して安価なるものにあらざりき。

 思出長かるべき夜、家にかへりてよりも予は猶さま/〃\の思に駆られたり。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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