五月二日


 

 風寒し。

 予は新運命を北海の岸に開拓せんとす。これ、予が予てよりの願なり。畠山、岩本、米田、沼田諸氏の好意による金調策にして予定の如くゆかば、予は明日、小樽の姉がりたよるべき小妹と共に出立せむと思へり。予は函館に足を停め、函樽鉄道をば光子一人やらむ。予の期望にして成ること早からば、予は一且帰り来りて一家を携へ再び渡道すべく、然らずば予は再びこの思出多き故郷の土を踏まじ。金を送りて老母妻子を巴港に呼び寄せむ。

 数巻の蔵書、詩稿の類等、旅行鞄に蔵めむとして殆んど半日を消したり。思ふ事のみ繁くして。

 夜、清民氏と共に役場に岩本氏を訪ふ。金矢氏泥酔して来り、醜穢の言人をして眉をひそめしむ。田舎紳士の果敢なさよ。清民氏、我が旅費の件につきて潜かに乞へるに、予に明日来れといふ。

 戸外は雨の音、嵐の音、家のうち何処となく鳴り渡りて、物すごしとも凄まじとも云はむかたなく、雹さへ降るらむ様の響きも打交り、寒さ見る/\増るに、人々皆襟かき合せて、火あか/\と勢よく燃えたる炉に近けば、忽ちにして一閃天地を劈ざくが如き電光あり。又忽ちにして、霹靂一声、恐ろしき雷の音となりぬ。これ丁未の年の初雷也。時ならぬ雷、怪し、いぶかし、今年の作物の景気いかゞあるべきなど話し合ふうちに、閃光、轟声、相続くこと数次に及びぬ。恐るゝ癖ある人は顔の色もかへたり。

 十時頃、いざ雨も穏かになりぬ、帰らむとて清民氏と門に出づれば、真に咫尺を弁ぜざる暗なり、忽ち、南より北に、天は白光の斧に劈かれたり。数秒にして百万の軍鼓一時に鳴るが如き音落し来りぬ。予はいと心地よきを覚えたり。三寸の胸俄かに拡ごりぬ。浮世の束縛にくるしむ我が心魂、忽ちにして九天に飛揚せんとするが如きを感じたり。

 家に入りて所思多し。この村この家この室に眠る、これ或は最後ならむかと思ふに、裸々なる人生の面目、忽ち我が胸を圧して涙を誘はむとするを覚えぬ。噫人生は旅なり。げに旅なり。されば我も亦旅より旅に!

 枕上、今日つきし「明星《五号を読む、詩も歌も、さして心にとむべきなし、たゞ深井天川の小説『月光』注目すべき作也。

 夢にいれるは三時にやありけむ、時計なければわからず。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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