汗に濡れつゝ
 
石川啄木
 
 
(四)

▲動物に保護色といふ事がある。カメレオンや兎を例に引くまでもない。此動物の保護色と同じ現象が人間の生活の上にも見られる。それが都会の生活に於て殊に較著(かうちよ)である。広く言へば四季の衣服の変化もそれであるが、東京の一膳飯屋(いちぜんめしや)、天麩羅屋(てんぶらや)、おでん屋などの輩(てあひ)が、夏になると争つて氷屋になるなども面白い例であらう。加賀屋の亭主は学問はないかも知れぬが、少くとも兎と同じ程度の生活上の知識を有(も)つてる。
▲何の店にも常客(じやうきやく)といふものがある、加賀屋にもあつたに違ひない、それが俄かに氷屋に豹変して其等の常客に飯を食はせぬ事になつた。一寸考へると加賀屋の遣方(やりかた)は自家の便宜のみ稽(かんが)へた遣方であつて、徳義上からは非難しても宜(よ)さゝうである。又、その二十人なり三十人なりの常客中の一人や二人は、加賀屋で飯屋を罷めた為めに餓死しても宜さゝうである。(かう言ふと馬鹿気て聞えるが、それは問題が卑近な為である、一応の理窟だけは立派にある。世上の堂々たる議論にも之と大差なきものが多い)ところが誰一人加賀屋が氷屋になつた為に餓死した者はない。餓死どころか、加賀屋で断られたと言つて其晩飯を食はずに寝たといふ者もあるまい。然うして加賀屋の氷店には朝から晩まで客がある。
▲これで見ても解る。我等が書斎の窓から覗いたり、頬杖ついて考へたりするよりも人生といふものはもつと広い、もつと深いもつと複雑で、そして、もつと融通の利くものである。僕は以前よく種々な人の人生論なんかを読んだもんだが、近頃ではトント手をつけたくもなくなつた。解つた様な事を言ふ人とは話もしたくない。
 

函館日日新開 明治四十二年七月二十九日
 
 
(五)

▲氷は冬の物である。それを夏になつてから食ふとは面白い事である。太古(むかし)の人類は無論こんな事を為なかつたに違ひない。家来に信山の巓(いただき)から融け残りの雪を持つて来さして食ふ位の事は為(し)たかも知れぬが、今の様にして氷を食ふ事は知らなかつたに違ひない。それが段々人智が進んで来て、冬に出来た氷を、或る装置(自然力の侵入を防ぐ為の)をした庫(くら)の中に蔵つて置いて、夏になつてから取出して喰ふ様になつた。その次には、それをモ少し大仕掛にやつて売出す事になつた。
▲所有権の無い氷を勝手に切出して来て、自然力以外の場処に隠して置く氷の貯蔵者は、とりも直さず自然に対して臓物隠匿罪(ざうぶついんとくざい)をやつてゐる様なものである。同じ言ひ方をすれば、氷屋も亦情を知つて其物(それ)を買ひ更に売るのだから、自然の罪人たる事は拒(こばま)れない。若し夫れ氷の需要者たる我等一汎人に至つてはその罪更に重い。自然は其一糸乱れざる運動を続け、その愛する処の万象を生育させんが為に、時あつて暑熱を地上に投げる。所詮自然界の一生物に過ぎぬ我等人類は、矢張おとなしく其天地の大規に服従すべぎであるのに、何の事ぞ、氷を用ひて其暑熱を避けようとする。我等が氷を噛んでゐる時は、即ち我等が自然に対して反逆してゐる時である。氷を噛んで『あゝ涼しくなつた。』といふのは、取も直さず自然を嘲笑して遺憾のない声である。更にその氷を嚥下(えんか)し易からしめむが為に砕片(さいへん)とし、味覚の満足を得んが為に砂糖とか檸檬(レモン)とか蜜柑とかを調和して呑むに至つては、人間の暴状も亦極まれりと言ふべしである。
▲更に近頃では、自然の製産を盗む許りでなく、其の力の一部分迄も盗み来つて、如何なる炎暑の日にも立所に氷を製造する者がある。これらは宜しく彼の旋風器の発明者と共に、電力盗用者、若(もし)くは会社の資金を流用して相場に手を出す手合と同罪に断ずべきではないか。
 

函館日日新開 明治四十二年七月三十一日
 
 
(六)

▲かう言つて来ると、無暗(むやみ)に辻褄の合はぬ事を喋(しやべ)くつて喜んでる様だが、人類文化の歴史は要するに人類が自然に対して試みてゐる反逆の歴史である。予は唯その反逆が極めて瑣末の事にも行はれてゐて、そして、誰もそれを反逆とも気が付かぬといふ事に興味を有(も)つた丈の事である。然り、唯興味を有(も)つた丈である。
▲氷とは縁の遠い話だが、『十九世紀文明の最大功績は人工避妊法の発達なり。』と言つた西洋人がある。
▲種々の方面から考へて見るに、人間が自然に対して為し得る反逆のうちで、此避妊といふ事程大きい反逆はない。生物の大目的は種の保存といふ事である。自然は此大目的を遂行させる為に、諸有(あらゆる)生物に妊娠といふ命令を下した。ところが此命令は余程残忍苛酷な命令である。自然も薄々それを知つてると見えて、此命令に成るべく穏しく服従させんとして、先づ歓楽を与へて誘惑する。そして其歓楽の最中に、不用意の間に人間をして其命令に服せしめる。黙つて其命令に服するか、又は其命令を拒む為に誘惑にも応ぜぬなら何の事もないが、幸か不幸か人間はモ些(ちつ)と賢い。
▲避妊なんて言ふと人は喫驚(びつくり)するが、何も驚く事はない。避妊と堕胎(だたい)とは別である。人間が単に子孫繁殖の道具としてのみ生きてるんでない限り、避妊は道徳上の罪悪とも言へぬ。若しも自然律に対する反逆たるの故に罪悪とするなら、氷を飲むと全く質に於て同じを罪悪である。相違は量の問題に過ぎぬ。氷を嚥む人は避妊を是認してる様なもんだハヽヽ。
 

函館日日新開 明治四十二年八月一日
 
 
(七)

▲筋向ひの車屋の十歳許りになる男の児が面白い真似をしてゐる。丸裸で縄暖簾の下に立つて、左手を腰にあてがひ、右に持つた渋団扇で隠し処を隠してゐる。何といふ滑稽な格好だらう。色の黒い醜い児だ。
▲それについて一寸思出した事がある。昔の希臘(ギリシヤ)の裸体彫刻には、男の陰部に桑の葉(?)が一枚着けてあるさうだ。それは、その頃から既に美術と風俗上の問題があつた為めか、或は単に其部分の有無が、その彫刻全体の美に何の関係がないからといふ美術家自身の手心の為か、或は又二者混同しての結果か、その辺の事は解らないが、兎に角無雑作な面白い事をしたものである。これは話に聞き本で読んだ許りでなく、写真版などでも度々見た。流石は二千年後の今日まで保存された名作だけあつて、車屋の子供が変な手付で渋団扇を持ち添へてゐる格好とは無論くらべ物にならない。
▲ところが近頃或る処で、最近仏国画壇で名ある作の写真を見た。中に妙な画が一枚あつた。(作者の名を今チヨツクラ忘れて二三度頭を捻つたが思出せない。)それは、一人の疲れた表情の年増女が桑の葉らしい物を一枚々々小川で洗つては、木と木の間に張り渡した縄に掛けて乾してゐる画(ぐわ)である。
▲初めは何を画いたのか解らなかつたが、希臘彫刻の事を思出して、「フム、成程!」と思つた。そして其事を話して友人と笑ひ合つた、笑つたのは、解らなかつたのが解つたから可笑(をかし)かつたのである。画(か)かれてある事が敢(あへ)て可笑いのではない。
▲二千年前の古代希臘彫刻の犢鼻褌(ふんどし)を、顔蒼ざめた近代の年増女が洗濯してゐるなんか、疲れ且廃(すた)れて猶且つ強き刺戟を需めて休(や)まぬ近代人の官能を、余り適切に、余り露骨に現はしてゐて、笑ふにも笑はれぬ程奇抜である。
 

函館日日新開 明治四十二年八月三日
 
 
 

 底本:石川啄木全集 第4巻  筑摩書房
  1980(昭和55)年3月初版発行
 

 入力:新谷保人
 2008年8月15日入力