二六一 四月十七日小樽より 小笠原謙吉宛


 

春温一脈袂に入りて、街々に駒下駄の音の軽さ、北海の浜も流石は卯月半ばを過ぎたればに候、山々の残んの雪にも春の色あり、蕗の薹の浅き緑を数日前汽車の窓より見候ひし、

去月、当地宛に下され候ふ御状、廻送せられて釧路にて拝見いたし候ひき、天が下の風狂児、席暖まるの暇なき匆劇に在りて、遂その儘ハガキ一枚の御返事も差上げざりし事、省みて我乍ら呆れ候ふ次第、よろしく御寛恕被下度候、相上変、樹下石上、清閑に居して、浄念(ほしいまま)に文芸にお親みなされ候ふ御境地、(そぞ)ろにお羨ましく存上侯、

兄が早くより遥望せられ候ふと云ふ此北海の天地は、鋤と鍬、然らずば網を持つて来るべき所にて、筆を荷ふて入るべき地には非ずと存候、大陸的風光はあり、唯、歌ふべく余りに落寞たるを恨む。随所に、人間生活の真状赤裸々に暴露せらる、小説の材料は多けれども、此無遠慮を極めたる生活の肉薄は、うら若き心を害なふこと多きを奈何せん。

津軽の瀬戸を渡りて将に一年、商業会議所の雇、代用教員はまだしもなり、昨秋初めて新聞記者生活に入り、校正子、三面主任、編輯長。咄、新聞も亦営利事業に候ひしぞかし。営利の犠牲となりて終日筆を揮ひ侯へば、筆が(カタキ)の思あり、

夜、燈を剪つて机に向へども、また筆を握るの心地なし、

これ啄木の精力衰へたる為のみにも非ざるべしと存候、阿々、

函館の百二十余日、札幌の二週日、小樽の百十日、釧路の七旬余――雪の北海道を横断して釧路の華氏零下二十何度といふ寒さに首ちゞめたるは今年一月二十一日の夜に候ひしが、氷れる海を初めて見たり、誤つて飲み習ひたる酒は醒めても上平は消えず、今月三日瓢乎として酒田川丸に搭じ、宮古港に一寸寄港、七日夜函館着、これにて北海一周完たし、十四日当地着。

明日、当地に居る家族を引纏めて函館に向ふ。家族は同地に残し、小生単身廿五六日頃に中央の都城に入る筈。

新らしき文学的生活。小生の運命を極度まで試験する決心に候、これは四百四病の外の外、日本の涯に来ての『東京病』は骨も心も共に腐らさんと致候、

上京後は当分唯遊ぶ考へに候故、時々手紙も可差上と存候。

諸事蝟集の中、辛うじて此一書を認め申候、同志諸兄へよろしく、委細は都より、かしこ、

  四月十七日

             小樽にて 石川啄木

 小笠原迷宮様 御侍史

二白 小生の向ふべぎ第一の路は、千思万考の末、矢張小説の外なしと存居候、

 


※テキスト/石川啄木全集・第7巻(筑摩書房 昭和54年) 入力/新谷保人

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