二四一 一月三十日釧路より 金田一京助宛


 

先日はなつかしき御葉書頂戴、尚又小樽の京子の方へも綺麗な絵葉書御恵み被下候由、うれしく/\御礼申上候、あの御葉書は小生が釧路に入りてより始めての東京便りに候ひし、お江戸の春の如月(きさらぎ)は、流石に早や梅の花などチラ/\綻びそめ候ふ由、五日目六日目に着く東京の各新聞見る毎に、そちらの空なつかしく、あの小路を()う行つてと、大学の通りから赤心館へ参る路をもよく思出し候、御卒業後の事は一向御動静を(つまび)らかにせず居候ひしに、新詩社の同人吊簿にて初めて大学院に御出の御事承知仕候ひし、零度以下の寒さの国に居て東京の事を思ふは、失意の子が好運の人を思ふと相似たるべき乎、

此釧路が日本地図の如何なる個所にあるかは、よく御存じの御事なるべくと存候、雪に埋れたる北海道を横断して、廿一日夜当地に着し候ひしより、連日の快晴にて雲一つ見ず、北の方平原の上に雄阿寒雌阿寒両山の白装束を眺め侯ふ心地は、駿河台の下宿の窓より富士山を見たると大に趣きを異にし居候、雪は至つて少なく候へど、吹く風の寒さは耳を落し鼻を削らずんば止まず、下宿の二階の八畳間に置火鉢一つ抱いては、怎うも恁うもならず、一昨夜行火(アンカ)(?)を買つて来て机の下に入れるまでは、いかに硯を温めて置いても、筆の穂忽ちに氷りて、何ものをも書く事が出来ず候ひし、朝起きて見れば夜具の襟真白になり居り、顔を洗はむとすれば、石鹸箱に手が喰付いて離れぬ事屡々に候、(キタ)グルと書いて逃ぐると訓む、北へ/\と参り候ふ小生は、取も直さず生活の敗将、否、敗兵にて、青雲の上に居る人の露だに知らぬ夢を、毎夜見居る事に御座候、

渋民の故園の一年有余は、楽しく候ひし、あけて昨年の四月、郷先生としての掉尾の大活動をやり、自ら号令して破天荒な同盟休校を初めた為め、首尾よくも免職となりて一家離散とは、旧道徳の所謂天罰覿面(てきめん)なるべし、五月五日飄然として津軽の海を渡り、臥牛山下に足を留め侯ひしが、三ヶ月許りして漸く一家を再び其地に集め侯ひし、函館はよき所に候ひし哉、青柳町の僑居は永く/\忘られぬ幾多の追憶を残し候、商業会議所の雇、弥生小学校の代用教員、函館日々新聞の遊軍記者、とり/〃\に新しき経験を積み候ひしが、天が堕落せる函館の区民に下し給ひし八月二十五日夜の火ほど凄じくも壮快なりしはなかるべく候、あの大火を見たる人に非ずば、真に人間の言語の上完全なるを知りたりとは申され間敷候、幸にして類焼だけは免れ候ひしも、新聞社もやけ、学校もやけ、又、傍ら経営し居りし月刊雑誌「紅苜蓿《も、秋期特別号の原稿全部印刷所と共に煙となり、再興の見込なくなり候、それにも増して残念なりしは、友人の許にやつて置きし自作の長篇小説一篇、これ又烏有に帰し侯ふ事に候、但し此大火によつて、深沈なる人生の活面目の一端を悟了したると、幾多新しき小説の材料を得たるとは、忘れ難き天の恩恵に御座候、

九月十三日夕、焼跡の星黒き夜風に送られて、翌日札幌に入り、アカシヤの葉にはためく秋風、窓前の芝生に注ぐ秋雨に、云ひがたく珍らかなる「木立の都《の秋を愛で候ひしが、北門新報の校正係は決して愉快なる職業には無之候ひし、居る事僅かに二週日、小樽日報の創業に参加する事となりて、泥深き小樽に入り候ひしが、野口雨情君亦小生と共に三面子たり、十月一日第一回の編輯会議開かれ、同十五日初号十八頁出し候ひしが、何分、寄集り者の事とて、編輯局裡に上穏の空気充ち、所謂(ヽヽ)新聞記者(ヽヽヽヽ)許り多くて上愉快なりしまゝ、初号発刊以前より主筆排斥運動を起し、其ため野口君真先に敵の鎗玉にあげられて同月末に退杜、アトは小生唯一人にて奮闘又奮闘、十一月末までには最初八人なりし記者中主筆以下六人迄遂々断頭台に上せ、新人物を入れ候ひしが、寝食を忘れて毎日十五時間位も社のために働き候事、日報社最初の三面主任が功労亦多大なるものと申すべきか、呵々、十二月中旬に至り、最後の根本的改革を遂行せんとせしも時機未だ至らず、社長氏が板挾みの苦境にあるを見るに見かねて、断然退社、何と云つても出社せず、遂に生来の我艦を小気味よく通し候ひしは(いささ)か痛快に候ひし、但しそのため今年の新年は(まこと)に新年らしからざる新年を迎へ申候、日報は日本事業家中にても麟麟児を以て目さるゝ山県勇三郎氏出資し、前福島県選出代議士にして目下当釧路を代表する道会議員たり、本道に於ける在野党の主領たる白石義郎氏社長に候ひき、此釧路新聞も亦同社長の所有に候。

白石社長は度量海の如き篤実の老紳士に候が、嘗ては国事犯を犯して河野広中氏らと共に獄につながれたる事もあり、又「真理実行論《といふ急激なる自由主義の世界統一論を著したる事などもあり侯ふ人なれば、胸の奥にはまだ若々しい革命思想を抱き居り、小生とは所謂支那人の「肝胆相照す《底の点あり、小生日報を退きしも小生を捨つるを欲せず、種々好意を尽しくれ候ひしが、五月の総選挙迄に現在の釧路新聞を拡張して釧路十勝二国を命令の下に置く必要あり、其拡張の大責任を小生に是非やつてくれよとの事にて、小生は釧路クンダリ迄流れてくる気はなく候ひしも、情誼上止むなく承諾し、拡張の基礎出来次第目報に帰るも何処へ行くも小生の自由といふ約束の下に此度同氏と同道、雪の北海道を横断したる訳に候、

小生着釧の翌日、社は今回新築の煉瓦造の小さいけれど気持よき建築へ移転仕候、現在の編輯局は前々よりの主筆と小生と外に二吊に候が、早晩更に二三吊増員すべく、新聞は目下普通の新聞より一廻り小さき形(三陸新聞と同じ)に候が、註文中の新印刷機及び活字着次第(多分三月一日より)普通の新聞に拡張し、引続いて六頁新聞とする筈にて、目下は現在の形にて二日置位に六頁出す事にいたし侯、小生着任と共にまづ編韓長といった様な役にて、早速編輯の体裁を全部改め、毎日自分で一頁以上書くと云ふ奮発をやり居候所、読者より続々感謝の手紙まゐり(田舎はこんなものに候)社の関係も大いに油をかけてくれ、腹の中でおかしく相成候、実際やつて見れば新聞記者も面白いものに候、但し毎日一面に政治上の事、外交や経済の事まで書くと聞いたら、大兄などは吹き出して笑はるゝ事と存候、呵々、滑稽はそれのみならず、四日許り前に当町愛国婦人会の支部の会合ありたる際臨席いたし候ひしに、無理に乞はれて辞する道なくなり、芝居をやる気にて「新時代の婦人《といふ題にて一場の演説をやりて、少なからず釧路婦人を驚かし、翌日の新聞に其演説筆記を載せ候事など、殆んど滑稽の極かと存侯、来る二日には社の新築祝として盛大な宴会を催す筈にて、準備委員長といふ吊称を頂戴した小生は、一昨夜徹夜して新案の福引二百本許り工夫いたし候、釧路は案外気持よく候、都合によつたら三月小樽に帰らずに二三年当地に居ることにし、家族をも三月頃呼寄せんかとも考へ候、これは社の方の要求にて候が、七分通りは小生も同意なり、社長は此間小生に時計買つてくれ候が、若し長く居る様になれば、社で家を買つて小生を入れてくれる由に候、二三年居れば、屹度今迄の借金をすまし、且つ自費出版やる位の金はたまるべしと存候、呵々、

今日は孝明天皇祭にて休み、

まだ/\沢山書く筈に候ひしも、釧路築港問題に関する有志協議会に出席すべき時間と相成候間、遺憾乍らこれにて擱筆仕候、文壇の事についても大に申上度事有之候、草々、

  四十一年一月三十日午後一時

                   釧路にて 啄木拝

 花明大兄 侍史

二白 アイヌには急がしくてまだ逢はず候が、当町より十四五町の春採(ハルトリ)湖と申す湖の近所に部落あり、道庁で立てたアイヌ学校ありて永久保春湖と申す詩人が校長の由、遠からず訪問して見るつもりに候。それから社長の所に、明治初年の頃何とかいふアイヌ研究者が編纂したアイヌ語辞典(但し語数順にしたる)の稿本(未だ世に公にせられざる)がある由、これもいつか見たく存居侯、小生が長く居る様だつたら本年の夏御来遊如何、中央公論のアレは面白く拝見仕候ひし、今日以後の日本は、明星(ヽヽ)がモハヤ時勢に先んずる事が出来なくなつたと思ふが如何、自然主義反対なんか駄目々々、お情を以て梅の花一つ御送り被下度候、

 


※テキスト/石川啄木全集・第7巻(筑摩書房 昭和54年) 入力/新谷保人

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