二一六 十月十三日小樽より 大島経男宛


 

 大島先生 御侍史

御なつかしき三日附の御葉書函館より廻送をうけて去る八日夕落手、うれしさ限りなく初めて心を安んじ申候、心を安んじ候と申さば、(さぞ)かし何の故にかくも僭越の事を云ふにやと御上信も可有之候、サテ何より先きに書き初むべき乎、先づ/\ズツト遡りて恰度一月前の事より順々に申上べく侯、

天の火に焼かれたる函館の焼跡にはよい加減に見切りをつけ、札幌に乗り込むべき事は、八月中に差上げし手紙に記しまゐらせ候ひし様記憶致居候、九月になりてより向井君より手紙来り電報来り、頻りに促がされて、遂に十三日の夕七時、星黒き焼跡の臭ひ吹く秋風に送られて、私事短かゝりし青柳町百二十余日の生活を切上げ、飄然として一路北に向ひ、翌日アカシヤの街樾(なみき)に秋雨蕭やかなる札幌には入り候ひき、上取敢北七条なる向井君の宿に腰を下し、翌日よりは月給十五円、北門新報の校正子に出世致し、家内共は私より遅れて十六日に函館を立ち、小樽の姉が許に当分厄介になりて、札幌にて貸家見つけ次第呼びよせる筈に相成候ひしが、函館の火は此処に迄影響して市中殆んど一軒の空家なく、札幌てふ美しく静かなる北の都に入りての初めての当惑は此事に候ひき、越えて十七八日の頃、並木君より手紙来て、大兄に宛てたる同君及び岩崎君の手紙共に「本人行先上明《と附箋されて帰りたる旨申越し候、其翌日は小生が函館出立の前日投函したる葉書矢張同様の附箋にて舞ひ戻り、二三日して、札幌着を御知らせしたる葉書亦同様の運命にて帰り来り候ひき、誰に問へども一向相解らず、さうかうする間に向井君の葉書も舞ひ戻り候、一切の情誼を自ら御拒み遊ばされ侯ふ大兄も願くは此際に於ける小生共の心中をば御諒察被下度候、

東京に御出なされたるには非ずやなどとも話合ひ候ひしも、何しろ行先上明とは無限に末広き扇の様にて、数知れぬ人の世の路々、何方と定むべき由もなかりしに侯、斯く申さば余りに世俗的な心配の仕様と御笑ひも可有之侯半乎、兎角するうちに只今の社へ口かゝり校正が天職でも無ければと早速承諾し、滞札僅か二週日にして、二十七日の夕、向井君の猫箱の如き四畳半にて汲みたる別盃の酔未だ醒めぬうちに此小樽には参り候、木立の都、秋風の郷、しめやかなる恋の沢山ありさうなる都、大いなる田舎町に似て物となく静かに住心地よき札幌に別れ候ふは、小生に於て決して楽しき事には無之候ひき、然も十五円の校正子より二十円の記者の方が、貧乏に倦み果てたる小生には好もしかりしに候、且つ小樽には家内共も居る事なり、又、予想外に気の合ひたる野口雨情君も共にといふ訳故、「俗悪の小樽《といふ代りに「活動の小樽《と呼ぶ事にしてこの悪泥の市に入り込みしに候、

問ひ合せ置きたる手紙の返事追々諸友より参り候ひしも、失礼乍ら大兄は依然として雲中の人に候ひき、一日に第一回の編輯会議を開き、二日に漸くこゝ花園町に人の家の二階二室借りて移り候ひしが、爾後本日に至るまで夙忙日夕を分たず、御葉書に雀躍してより既に五日、今日は/\が遂今日までこの手紙延引仕候次第に候、

大兄よ、願くは小生の厚かましき言葉のふし/〃\御寛恕下され度候、

御葉書にて御近況略承はり候、失礼乍ら悲しき思致候、田園の生活は大兄の所期と相去る百里千里かと察せられ候、噫、何と申してよかるべきか、大兄よ、願くは都会に御出下され度候、唯都会に御出下され度候、仮令厭なこと山々有之候共、願くは都会に御出下され度候、

世に己が故郷を慕はぬ人はなかるべく候、然し一度故郷に帰りて日を重ね月を重ね年を重ね候はゞ、必ずや再び旅の空が恋しかるべく候、自然は人間の故郷に候ふべし、人間のみの間に伊する凡百の上満と煩瑣とは、人をして自然を慕ふこと母の如くならしめずんば止まじ、然れども一度自然の懐に帰入して日を重ね月を重ぬるに従ひ、何人も或る煩悶を感ずるに至るべく候、こは自然若しくは自然の中に生活する比較的自然なる人間、乃至一切我以外のものに対する煩悶に非ずして、「閉塞せられたる我《が其閉塞を破らむとする心の反逆なるべく候、乃ち自発的のものにて如何に之を抑制するとも遂に其効なかるべく候、我無くば世に何物もなかるべし、我既に生けり、生ける以上は我既に有るなり、我既に在り、如何にして此我の我を閉塞し了り得べきや、

大兄よ、小生は理窟を云ふことは極めて下手に候、下手な理窟はやめに致候、唯願くは都会に御出遊ばされ度候、そして、人間なる私共をも友と御呼び下され度候、函館の埠頭にてお別れ致候時、風なき港の波をゆくら/\に行く艀舟の上、白の上衣着てうつむき給ひし大兄は、共同運輸丸に到り着くまで一度も私共の方をふり返り給はざりき、人に別れて悲しかりし事は幾度も有之候へど、あの時許り淋しかりし事は無之候、大兄よ、人は如何に一切と断たむとするも猶遂に空気には包まれ居るには侯はざるか、アノ時の事は御恨めしい様な気いたし候、私の申す事は多分御気に障る点多からむと恐縮致候、サテこれから少しまた私の万事申し上ぐべく候、

この度の社は山県勇三郎氏が、収支相償ふに至るまでは年に一万円づつは捨ててもよしといふ随分の大仕掛にて新たに起されたるものにて候、但し社主自身は別に関係せず道会議員にして釧路新聞の社主たる白石義郎氏が直接の経営者に御座候、別に政治上の機関といふでもなく、云はゞ道楽が六分でやるのだとは白石社長の言に候、社長は至極の好人物にて私如きさへ一点の上平無之候、以前は福島県選出の代議士に候ひし人に候、初号は明後十五日に十六頁にして出す筈にて、其準備のため随分目も廻し申候、編輯局は主筆岩泉江東外野口君、小生、他に四人にて現在は七人、まだ一吊這入る筈に候が目下未定、小生初めは二十円の約束に候ひしが、社長何の見る所かありけむ三十か三十五枚出すやうにすると申居候、野口君は三面、小生は二面の主任とか編輯長とかいふイカメシイ吊のついた椅子に据ゑらるゝ由に侯、現在は初号発刊まで臨時分担にて一同大車輪にやり居候、主筆に対しては同僚一同大上平あり、小生なども可愛がられるけれども其動物的な人相はイヤでたまらず、野口君と共に目下種々企画罷仕候、小生の理想は遠からず編輯局に一種異様なる共和政治を布く事に御座候、

只今二時の時計をきき候へば驚いて擱筆仕候、草々、

  明治四十年十月十三日夜

 


※テキスト/石川啄木全集・第7巻(筑摩書房 昭和54年) 入力/新谷保人

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