二〇八 九月二十一日札幌より 宮崎大四郎宛


 

先日は只無暗に世の中情けなくなりて悲しきハガキ書き候ひしが、今夜は大に元気を以て此筆取り上げ候、

同宿の松岡君より来る三十日頃兄札幌に来らるゝ由承はり申候、何ともいへず心頼もしく待たれ候、その時までにはこの六畳間が僕とせつ子と京子と三人の家庭になるのに候、豚汁でもつついて大につもるお話致すべく候

小生当地に入つてより、後に残りし一家は十六日に焼跡をひき上げて小樽なる姉の許に落ちつき居候ひしが、今朝せつ子一人一寸参り、四五日中に来札の事にきめて只今六時四十分の汽車にて帰りゆき候、母や妹は当分姉の許に居る筈に候、

さて北門の方は貧乏にて駄目なる事昨日も今日も変らず、然し少なくとも来月十日頃迄には別の方にやゝ割のよい口出来る筈に候、乃ち北海タイムスに入るか、然らざれば今度新らしく山県勇三郎氏が起す小樽日々新聞に入る事となるべく候、成るべくなら札幌を離れ度ないと存居候へど、所詮は○の高低によるべく、又新らしき新聞は万事に面白かるべく候へば、今の処どちらとも解らず候、兎に角小生の身が生活上少し具合よくなるべきは事実に候、何卒御安心被下度く、

小樽日々にゆくとすれば三面の主任といふ役目の由、タイムスでも校正子でなく外交係でなく、いはゞ遊軍の地位になるべしと存居候、

小生は更に一の喜ばしき新報導を兄に向つて書きうるを悦び候、そは外でもなし、今迄小生は生活その他のために心を苦しむる事多く、何日となく自分の天職を忘れむとする様の傾向有之候ひし所大に感ずる所あり、生活の方は命さへ続けば薯喰つてもよしといふ意気込にて今后は大に「復活したる自覚《を以て文学のために努力する決心を起し侯、小生は楽天家に相成候、人は中々死ぬものに非ず必ずどうかなるもの也といふ信仰を以て、大にやるべく侯、この第二回の覚醒が小生のため決して安価なるものに非ざるは兄も諒とし玉ふならむ、天下初めて太平也、何卒御安心被下度候、「札幌《なる「大いなる田舎町《は盛んに小生の気に合ひ候、妻も大に札幌説を主張いたし候、実際札幌は詩人の住むべき都と存候、

万事は御面晤の時に譲るべく候、京子頗る健全、這つて歩く様に相成候、

向井君親子三人及び松岡君共にこの一家にあり、宿の主婦は親切に候、松岡君について函館の同人は大に上満を抱き居れり、この事はお目にかゝる日にお話し致さんか、

旭川は随分寒いでせう、ヌタツプカムシユペ山に降雪もありし由、然し馬の手入を卒にさせる見習士官殿は左程苦しくもなからむなど想像いたし侯、草々

  二十一日夜               啄木

 郁雨大兄 御侍史

 


※テキスト/石川啄木全集・第7巻(筑摩書房 昭和54年) 入力/新谷保人

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