二〇七 九月二十日札幌より 岩崎正宛


 

今朝湯屋にて綱嶌梁川先生の訃音を載せたる新聞を読み、変な気持になつて帰り候ふ処、習志野へゆくといふ吉野君のハガキ参り候、君、君、君、「今度の電報はいよ/\最後なるべければ顔を見に行くにて候《といふ文句を読んで、小生どんな心地したか御察し被下度候、人の居ない処へ行つて一人泣きたく相成候、函館が無暗に恋しく成り候、帰りたく候、何とかしたく成り候、今朝程同室の虚偽子の顔の癪にさはつた事無之候、無理ではなく候、御察し被下度候

吉野君の事は何と書けばよいか解らぬから書かぬ事にする、願くは僕と二人前吉野夫人を御慰め被下度候、失礼かは知らぬが、僕の代理をつとめて貰ふ人君の外に無之候、 今日は小生入札以来初めて好天気に候ふに、何とした厄日に候ふぞ、

殆んど書く事が無くなり候、否々、まだ書く、

一昨日小樽なるせつ子より手紙参り候、焼跡出発の際に於ける諸兄の御親切詳しく書き越し候、小生は何と云つて御礼すればよいか解らず候、

御礼のかはりに一つ君に喜んで貰ふ事が有之候、喜ばしい事かどうかは知らぬが、自分は喜んで貰ふつもりに候、外ではなし、小生が今迄余りに生活とか其他のために心を労して自分の本領を忘れむとして居た事を自分自身で自覚致し候、忘られたる文士? 否、自分で忘れむとしたる「誤れる天才《は今はかなき眠りより覚め申候、我が天職は矢張(OO)文学の外何物でもなかりき、此の「復活したる自覚《によって如何なるものが期待されうるかは疑問とするも、兎も角小生自身は今再び(OO)新らしき心地にかへり申候、小生は右の報導を成すをうるを目下、少なくとも目下に於て、何よりの楽みと存候、

住吉学校の廊下で腰掛の塵を払つて僧朊めいたものを着た君と話した事が頭に浮び来り候、

せつ子が恋しく候、京子も見たく候、それから出立の日乃ち吉野君の御喜びの日、同君が「今盛んにやつて居ます《といって炭の粉だらけの手を流し(OO)で洗つて居た様が目に浮び候、又橘訓導が茶を汲んで出す時の手つきが思出され候、函館百二十日間の短生活が、小生にとつて甚だ有意義なりし事を君と吉野君と皇天に向つて感謝致候、

札幌は詩人が一生のうち一度は必ず来て見る価値ある所に御座候、「静けく大なる田舎町《と評せば最も適切なるべくや、四辺の風物が何となく外国風にて風俗も余程内地ばなれ(ヽヽヽヽヽ)がし、そして人は皆日本人なるが面白く候はずや、停車場の前通りなるアカシヤの街樾(ナミキ)の下をゆく人くる人皆緩やかなる歩みを運び居候、

社の小国君は純正社会主義者に候へど赤裸々にして気骨あり真骨頭あり、我党の士に候、新聞は今正味六千刷り居候が、整理其路を得ず財政の方は困難にて、給料など仲々期日に払ふことなく、現に先月分がまだ渡らぬ由に候、妻子呼び寄せも少し考物に候、今度出る小樽日々新聞の三面主任にならぬかと小国君申し候故、よい様に取計つてくれ玉へと申置き候、小生は万事自然の力(ヽヽヽヽ)に任せるつもりに候、これは小生の処世法として最もよき方法なる事は兄も認めらるるならむ、雑誌の方の事は未だ見当つかず、出しうるものとすれば小樽で出すも札幌で出すもさしたる相違なからむ、何れこの事については更に熟考致すべく候、

君、母君及びおこうちやん秀ちやんによろしく御伝へ被下度候、秋の日ホカ/\と障子に照り、頭がボーッとして参り候間擱筆仕候

  九月二十日朝                啄木拝

 岩崎兄 御侍史

吉野君の夫人へよろしく頼みます、松岡君はまだ無官の太夫、白石村といふところの役場に口があるが、未だきまらぬ。多分ダメならむ、黒石へ手紙やつて金送らせると申居侯、並木君へ明日手紙かく

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北門に歌壇起したよ

 


※テキスト/石川啄木全集・第7巻(筑摩書房 昭和54年) 入力/新谷保人

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