一九九 八月十一日函館より 宮崎大四郎宛


 

               青柳町二十五  吉野君

               同  三十六  岩崎君

               日高国下下方  大島君

今日午前十一時頃、九日附のしめやかなるお手紙まゐり、くり返し候ふほどに何とはなくうら悲しくなりて、半日物思ひに耽り申候、夕方、母と妻と京子と、脚気のため小樽より転地し来りたる小妹との四人を岡山孤児院の慈善活動写真会へ出しやり、私は沢田岩崎両兄と共に大森浜へまゐり、生れて初めて首まで海の水に這入ッて見候ふに、体の具合急に軽く相成、未だ嘗て知らぬ「健康の心地《を感じ、帰りて来て冷水にて顔や手足を拭き、燈火つけ候ふに、狭き乍らも唯一人は何となく淋しく、復又しめやかなる心持と相成申候。孤檠(こけい)をかゝげて此筆をとる、

これ前の手紙は御覧になりたるならむと存候、大嶋氏よりは唯一度しか消息無之候、また例の学校の方の一件も何の様子も相解り上申候、大島氏の方より直接交渉せられつゝあるならむかと存居候、

私とても妻に心配かけたくなきは山々に候、殊には母も参り候ふ事故、なるべくそんな気振も見せたくなく候、私、痩せた割合に元気よく候へど、矢張人間に御座候、人間に候へば人間らしく様々心配も致候、しかし、しかし、何とすればよいやら……………お察し下され度候。母を迎へにまゐり候ひしため英国艦隊で金儲けする機会も失ひ申候。今月は大に倹約させ居り候へど、十二円で親子五人は軽業の如く候、万朝の十円小説にでも一つ出して見ようかなど考居候、

トンダ弱音吹いて遠方の兄にまで心配かけ相すまず候、松岡君よりは近頃僕らの方へ誰へも消息無之候、或は本月中に再渡道の事むづかしかるべくやなど想像いたし居候、

先日吉野君当直の夜、東川の学校にて蚊に喰はれ乍ら岩崎君と三人にて悲しき話いたし、三人にて世の中、世の中、と申候、実に世の中に候。私共たとへ地の涯へ逃げ候ふともこの世の中が(ヽヽヽヽ)追ひかけて参るべく候、一度思を人の世の事に馳せ、又、自分の将来の事など考へ候ふ時、微力なる我等はたゞ噫世の中だ、と申す外に何の言葉もこれなく候、或は我等死ぬ時まで此語を繰返さねばならぬかも知れず、無暗に悲しくなり候

筆投げ出して煙草のみ居候ふうちに、こんな事ではいかぬと感じ申候、兎に角何かやるべく候、出来るだけ働くべく候、そしたら何とかなるならむと存候、何とかなる(ヽヽヽヽヽ)といふのは人間の最もよい考へだとマアテルリンクが申候由、よい考へか悪い考へかは知らぬが、然し仲々心細い考へに候、

何だか今夜はかくのがイヤになり候、蚊が沢山くる、丸谷君はその後一度も来ぬ、吉野君の細君まだやらかさぬ、或は今夜あたりかも知れぬ、写真早くくれ玉へ、早々頓首

  十一日午后九時                  啄木生

 郁雨大兄

二白 雑誌、小野から原稿かへして来た、四頁組んでみたが、(どう)しても字が足らなくてダメだから今度だけ函毎へやつてくれとの事、しかたなしにまた函毎へやり候が、多分二十日頃に出来るかと思ふ、此処で活版所をひらくと儲かるよ君、現に教育会雑誌、会議所の月報などは充分ひきうけてやる見込がある、そしたら紅苜蓿も思ふ存分やれる、北海少年も出せる、然し資本がマア三千円かゝる、矢張空想だ、呵々今日どうも僕は世の中から辞職したいやうな気がしていかんサヨナラ 早く帰つてくれ玉へ君。君が居ないとさびしいよ、グズ/\してゐるうちに年とつて死ぬ、死んではツマラヌ、唯死んではツマラヌ、然し手も足も出せぬ、生活の条件が安固でないと書きたいものも書けぬ、ダカラ世の中から辞職したくなる、

 


※テキスト/石川啄木全集・第7巻(筑摩書房 昭和54年) 入力/新谷保人

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