啓
お別れしてより既に十二日、暑さが日増に加はつて、僕の原稿紙縞の単衣も余程キタナク相成候、其間、天下無類の電報一通、ハガキ二葉、封書二通、其最後の一通は只今拝見仕候、然も僕の方で書くのが今初めて也、怠けたるかな/\、怠け候ふ理由は後文を読んで御自得被遊度、僕自身では御無沙汰の御申訳などと人らしき顔は上致候、
兄に別れての夜は、総勢にて
翌二十八日の夕方、並木切符君まゐり、入口にて立話致居侯処へ〒脚夫が来て、石川タクボクといふのは此処ですかと申候、然りと答へ候処、何故表札を出して置かんかと叱りとばされ、こゝに書いてあると威張り返し候ふに、あひにく硝子戸は開けて置いた場合故、外からは例の
一セウニタタ一ドミルフンマン六コトニアリヌヲカシカラスヤダイフヘイコカゲヲセヲムネンミナイルレトモユルナツトニクニム
岩見沢の和田氏には早速雑誌発送致させ候、原稿上足にて三十一日に〆切ルをえず、翌日も矢張駄目、但しかの写真は一日の夕刻に出来上り、又同日日高国下下方なる大嶋氏より手紙まゐり候ひき、大嶋氏の共同運輸丸はアノ日の翌日の午后三時になッて初めて出帆したる由、アキレ蛙とは此事此事、
二日の午后八時には、僕玄海丸の一等船室に在りたり、此行並木君の周旋による、一等室の美々しさには、僕少なからず浮れ出し、遂々柄にもなく葡萄酒を飲んで、一人で天下太平をキメ込み申候、但しボーイにコンミツションをやッたので左程の失敗も上致候間御安心下され度候、翌三日午前三時抜錨、九時青森上陸、十一時汽車に乗りて、車窓より初めて蝉の声をきき、又青田の風を吸ひ申候、感多少に候ひき、小湊駅に下車して、中学時代よりの友、今度岡山のハイアースクールを卒業して来た瀬川藻外を訪ね、焼くが如き炎熱に汗流し乍らビールの杯をうち合せ、夕刻再び車中の人となりて野辺地に下り、凹凸極まりもなき道を腕車にゆられ乍ら、常光寺と申す禅院にまゐり候、八十二歳なる老僧は乃ち我が伯父君にして、父も此処にあり、老母は僕よりも早く着し居候ひき、其夜の心地は宜敷お察し下され度候、翌早朝母と共に出発、青森より石狩丸の二等客と成り、海上極めて平穏、僕も母も平気で昼飯を済し、午后四時無事帰函。これにて僕の身辺漸やく少しく纏まりがつき申候、
帰り来て当惑いたし候ふは、原稿がまだ出来て居なかッた事に候、
翌五日長きお消息うれしく拝見いたし候、目のあたり逢ふ様にてホントに嬉しかりし、麦飯の如く味なく洋朊の如く窮屈なる御生活はお察し申上候。出発の前夜の出来事特にお知らせ下され候ふには、人事ならず思はれ候。我等は何日までも今の様に、悟ッた風の顔付などはせず、人生の深き/\匂ひと味ひに酔ふて居たきものに候………………何だか理窟めいた事が云ッて見たくなり候、然し今日はやめる、
人の原稿を作りかへて長くしたりなどして、昨夜一先大体の編輯を終り、今日午前小野活版所に渡してまゐり候、十六日に発行の予定に候、実際今度は苦心致し候、兄の歌、あとにて熟読低誦いたし候ふに、想は独特也、但し其想の云ひ現はし方が少なからず横路に踏み入れるの怨みあり、兄にして一旦横路から出て本道を行かれたならそれこそ大変なことになるべく候、矢張近頃の作風を少し御参考迄に見らるるがよからむ、兄がそんなことで怒る馬鹿でないことを承知の僕故、同人と鳩首して苦心の結果、縦横にナヲシ候、吊前は生田白桃に致候、
社の前途について大に考ふる所あり、口先だけの
成功したら大に威張る事、
失敗しても大に威張る事、
僕にはこれでも仲々元気がある。
特別号に原稿集まる予算あり、若し集まらなかッたら僕一人ででも百頁二百頁は書く。君も三十一日迄に是非何かかいてくれ給へ、巻頭にはイプセンの社会劇でも一つ訳して出さうかと存候、兎に角大に気を吐かむとする也。計画だけでも痛快に候はずや。
―――――――――――――
只今小樽の姉の許に居り候ふ小妹より、脚気にて転地の必要あり、九日の朝七時行くといふハガキ参り候、噫君々、世の中/\、この狭い家に四人とは、サテ/\夏は暑苦しいものに候ふかな、お天頭様は僕を餓死せしめる訳でもあるまいが………………桑原々々、
岩崎君の脚気は兄の薬にて大方よし、吉野君の細君の一件は今日か明日かと待ち居候、十日前ならむ、妻も健全、京ちやんは日毎に可愛くなる、頓首、
八月八日午后三時擱筆、 啄木生
郁雨大兄 御侍史
お別れの間際に申上げし事、是非/\御決心あらむ事、心より祈居候、姉君へのお手紙は既に投函致候、妻よりよろしくと申出候、
※テキスト/石川啄木全集・第7巻(筑摩書房 昭和54年) 入力/新谷保人