啄木散華
―北海同時代の回顧録―
 
沢田 信太郎
 
 
 
 十. 憧憬の旅酒田川丸
 
 家庭を離れて、放たれた鳥のやうに自由奔放に振舞ってゐた、八十日間の釧路生活に於て、彼の新らしく経験したものは酒と女であった。「生れて始めて酒に親しむことを覚え、芸者といふ者に近づいて見たのも初めてだ、之を思ふと何と云ふことなしに淋しい影がさす」と述懐して居る。ぽんた、小静、市子、小奴と云ったやうな当時彼の周囲に集まった若い芸妓は、多少とも文学趣味らしいものを解して、酔余戯れに唄ふ彼の歌にも、敬聴を吝まぬ態度を示して呉れたので、彼は悉く喜んだ。凡てが芸術だ、芸術だ、と叫んで彼は無理をしてまで通ひつめた。併し其心の奥の奥には、一抹の不安と寂しさとがあった。
 
  浪淘沙
  ながくも声をふるはせて
  うたふがごとき旅なりしかな
 
  あはれかの国のはてにて
  酒のみき
  かなしみの滓を啜るごとくに
 
 更に彼の手記したものゝ一節に「石川啄木は釧路人から立派な新聞記者と思はれ、旗亭に放歌して芸者共にもて囃されて、夜は三時に寝て、朝は十時に起きる。一切の仮面を剥ぎ去った人生の現実は、然し乍ら之に尽きて居るのだ。」と、やゝ自嘲に似た感慨を洩らして居るが、其頃の彼としては、「釧路新聞」への興味は段々と薄れかけ、毎日、型の通りの編輯を繰返すことに倦怠を感じ、僅かに新機械の到着を待って、紙面を拡張すると云ふ事に一縷の希望をつなぐ丈けで、新任した頃の意気は失はれてゐた。それに社内は整然とした秩序が立ち、社長から理事、主筆、編輯長、社員と階級的統制が厳重に行はれ、彼の主張する個性尊重の空気はドコにも見出せず、只太平無事の日のみ続くことらぬ思ひをし、吉野白村其他を入れて一種の共和制にして、活気ある紙面を作らうとした当初の理想が凡て破れた為め、夢から現実に復って、彼は始めて彼らしい煩悶に落ちて行った。
 常に自ら風雲児を以て任じてゐた啄木には、斯かる平板にして単調なる生活は耐へられなかった。加ふるに中央文壇は次から次へと新進作家が頭し、自然主義への憬れを有ってゐた彼に非常な刺戟を与へたので、遥かに東都の天を望んでは、こんな田舎新聞にいつまで居られるものかと云ふ、焦燥気分を駆り立てられるばかりで、最早落着いて仕事をする気力も出なかったらしく、遂に三月の二十日過ぎから病気と称して、社を休んでしまった。そして一方には、表面呑気らしく構へては居たものゝ、矢張り小樽に残して置いた家族のことが気にかゝり、人の子として又夫として、更に愛児に対する父として少しも早く一家を纏め、家庭生活を復活してやることの大責任を痛感するやうになって、懊悩に懊悩を重ねた結果、茲に創作家として中央文壇に乗出すことを決意し、密かに釧路脱出の機会と方法とを考へるやうになって来た。其頃の彼の手記を見ると、三月二十八日頃には既に上京の方針を確定したらしく、直ぐにも飛び出せるやうに着々と準備を進めて居た。その一節に
 

 
啄木は林中の鳥なり。風に随って樹梢に移る。予はもと一個のコスモポリタンの徒、乃ち風に乗じて天涯に去らむとす。白雲一片、自ら其行く所を知らず。
 
と明かに彼の決意を赤裸に述べて居る。又四月二日に「鎌田君から十五円来た」とあるのは、恐らく釧路脱出の費用として用意されたものであらう。其日彼は洲崎町の下宿の二階で新聞を読んでると出帆広告が目についた。安田回漕店扱ひの酒田川丸が午後六時に出帆して函館、新潟に行くとある。さうだ函館へ行かう、先ず函館だと咄嗟に思案を決めると直ぐ扱ひ店へ聞きに行った。すると途中岩手県の宮古へ寄港して函館へ行くのだが、二等の船賃が三円五十銭と云ふことが判かった。彼は急いで乗船券を買ふと下宿へ引返して、先づ愛妓の小奴へ宛てゝ別れの手紙を書いた。「釧路新聞」へは急用で二三日函館へ行って来ると通知した。そして予て準備してあった手回りの品を例の古鞄に詰め、宿の人達には気軽にアッサリと挨拶して、唯だ横山と高橋の二人丈けに送られて落人のやうに乗船して了った。すると積荷の都合で船の出帆が四月三日の午前十時に延期され、彼は石炭と油の臭気に咽せるやうな思ひをしながら、一夜を船室に明かした処、荷役が後れて又一日出帆が延ばされた。そこで彼は早速上陸して、四日の夜人目を避けながら桟橋に近い或る蕎麦屋へ入って、茲へ鹿嶋屋の市子とてる子を呼んで、別盃を酌み交はした。小奴の方は、彼の作家としての成功を心から祈ってると云ふ、熱意をめた手紙に添へて、金五円也を餞別として、使の者に届けさせた丈けで、何故か最後まで顔を見せなかった。
 軈て時間が来て彼は艀船に乗り移ると、市子とてる子は私達も本船まで送って行くと云ひ出した。そして刻々に暮れて行く釧路の港の燈火に別れを惜しみながら、愛妓二人に見送られて本船に漕ぎつけた。市子は茲でも名残りの握手を求めて眼に一杯涙をためながら悄然として別れて行った。多情多感の啄木は市子達を乗せた艀船が暗に吸はれるやうに遠ざかって行くのを瞬きもせずに見戌って居た。彼はうして永久に釧路を見捨てゝ了ったのである。
 酒田川丸は三百四十九噸の汚ない社外船であった。二等の船室も狭く暗かった。併し彼の心は今後の計画で張り切って居り、空想の翼を涯しなくひろげて、それからそれへと夢を描くに忙がしかったので、船のことなどは殆ど忘れてゐた。かくて乗船以来三日目の四月五日に漸く錨を抜いて釧路の港を後にした。流石の彼も甲板に立って、感慨無量の面持で雪に蔽はれてる雌阿寒、雄阿寒の雄姿を望み、よく「妹共」と散歩した知人岬の海浜から、「釧路新聞」の赤煉瓦の見ゆる町の光景を眺め、更に市子や小奴や小静やの住む粋街のあたりに眼を放って、飽かずに見入ってゐた。
 
  よごれたる足袋穿く時の
  気味わるき思ひに似たる
  思出もあり
 
  さらさらと氷の屑が
  波に鳴る
  磯の月夜のゆきかへりかな
 
 春まだ浅き北海道の東海岸は、氷片の漂流尚ほやまず、海面を吹き上げる風は?(はり)を含んで、鼻も耳も削がれるやうに痛かった。襟裳岬から恵山岬にかけて穏やかな航海であったが船休は可なり揺れた。彼は新らしい希望を胸に燃やして、船脚の進むがまゝに目的地に向って心を急がせてゐた。途中陸中の宮古に寄港した時は、既に梅の蕾の脹らんでるのを見て驚いた。茲でも沁々と、釧路の寒かったことを思ひ出して、様々の瞑想に耽ってゐた。
 四月七日船は尻矢岬を左舷に見て、懐かしい津軽海峡に入って来た。そして其日の午後九時に無事函館に投錨した。前年の五月に上陸した思出の桟橋を、恰かも満一年ぶりで再び見たのである。彼は心を躍らして臥牛山下の街頭にを走らして行った。そして一夜を青柳町の岩崎白鯨の家に宿り、翌日宮崎郁雨とも会って、具さに彼の決意を語り、色々相談の結果、彼が上京後成功して一家の生計が営めるやうになるまで、一時家族は郁雨の処で引受けることに話が纏まり、それから約一週間に亙って、大火の洗礼をうけた函館の市街の復興ぶりを見て歩き、旧知新知の人達にも会ひ、四月十四日の朝漸く小樽の家族の処へ帰って来た。
 私は釧路の啄木がドコとなく変った様子をしてゐるのに感づいて、それとなく注意してると四月四日の朝早く一枚の葉書が飛んで来た。見ると細字で認めた彼の釧路退去の通知書であった。それには釧路の平凡生活に耐へられぬやうになったから、断然上京して新運命を開拓する決意を披瀝してあって、いろ/\な理由を箇条書きにしたものであった。是は酒田川丸の船室で認め、船員に頼んで陸上のポストヘ投入させたものらしく、「船中にて認む」と脇書がしてあった。それから十日目の今、小樽の家族の仮寓する花園町の星川方で、久しぶりに彼を中心とした老母、夫人、愛児の一団が、和やかな笑声をあげて、楽しさうに語り合ってる光景を見て、私は心から彼及び彼の一家に春の甦ったことを祝福した。其時の彼は非常な元気であった。それから間もなく、「小樽日報」が愈々没落の運命を辿り、終に休刊を発表した四月十九日に、勢よく道具屋を呼んで来て、彼は多くもなかった家財の殆ど全部を売却し、其日の午後八時三十分中央小樽駅発の列車で、家族と共に函館に向けて出発した。そして予定の通り老母、夫人、愛児の三人を宮崎郁雨に託して単身あこがれの東都を指して旅立った。流星のやうな啄木の姿が、斯くして北海の天地から消へ去ったのであった。
 善にせよ、悪にせよ、彼の為すことには常に尋常以上の生気が漲っていた。彼には猛鷲のやうな威力は認められなかったが、隼の有つ鋭どさは到る処に発揮された。彼の芸術論や、処世観にも却々聴くべきものが多かったやうに思う。併し俗物である私には、啄木に果して天才があったか、どうかそこまでは分からない。只偶然の因縁から一喜一憂を共にして来た其の頃の追憶を新にして、ありのまゝの人間啄木を紹介したに過ぎない。
 
 
(中央公論 昭和十三年五月号・六月号所載)

 

  底本:回想の石川啄木 第8巻
    岩城之徳編  八木書店
    1967(昭和42)年6月20日発行
 

  入力:新谷保人
  2007年1月27日公開