啄木散華
―北海同時代の回顧録―
 
沢田 信太郎
 
 
 
 
 八. 小奴と市ちやん
 
 啄木が「釧路新聞」に入社して間もなく社屋新築落成式が挙げられた、それは二月二日であった。彼は早速準備委員となって社の内外の装飾を受持ったり、奇抜な考案を練って百何十本かの福引をへたりした。式の当日になると主筆の日景君から紋付の羽織や仙台.平の袴を借着して、堂々と式場に臨み、夜は来賓七十、芸妓四十といふ其当時の大宴会を喜望楼に開催して、彼も接待係として席に列し、土地一流の有力者と接触する機会を得た外に、彼の文名に好奇心を唆られてゐた若い芸者連にも顔見知りの縁をつなぎ、盛んにチヤホヤされて嬉しがってゐた。
 啄木が好んで口にする題目に婦人解放論と個性尊重論とがあった。彼が着任早々一月の末に催された愛国婦人会釧路支部の新年互礼会に招待され、其席上で「現代の婦人に就て」と題して即席演説をやった。彼の最も得意とする婦人問題丈けに、平生の主張を其のまゝ骨子にして、滔々と捲くし立てた。それが可なり好評を博したので、社に帰ってから更に、「新時代の婦人」と題目を改めて新聞に発表した。こんな事から広くもない釧路の町では啄木の名が婦人社会にまで喧伝され、忽ちにして彼は有名の人物となって了った。其後釧路新聞の新社屋落成祝賀会の時に、其の余興として彼の書き下した脚本「無冠の帝王」で文士劇をやり、而も彼自ら其劇中の主役に扮すると云ふ熱狂ぶりを示めしたので、非常な評判となり、面白い石川さんから、偉らい石川さんに飛躍して行った。茲らは彼の釧路時代に於けるクライマックスではなかったかと思ふ。
 それに今一つ「釧路新聞」の競争新聞に「北東新報」と云ふのがあって、社長の西嶋が佐藤、日景の両雄を向うに回はして根気よく戦ってゐた。併し紙面の体裁から云っても、記事の内容から云っても、到底「釧路新聞」の敵ではなかった。殊に啄木が編輯長となって才筆を揮ふやうになってからは、同一の材料を扱っても全然別物の感を与へる程に巧みな記事に作り上げ、之を手際よく賑やかに排列して行くので、読者の目は自ら「釧路」に集中される姿となった。そこで勝ち誇った彼は百尺竿頭一歩を進め、其頃漸く顔馴染の出来かけた柳暗花明の巷に出入し、そこから握って来る香囲粉陣の秘話を、紅紫様々の材料として俎上にのぼせ、釧路人のよろこびさうな艶種記事として、紙面を飾ることに努力した。かくして社会部記者としての彼の技能は、茲に遺憾なく発揮されたことは云ふ迄もない。
 一度白石社長の招待で料亭喜望楼の紅燈を潜ってから佐藤理事に依ってしやも虎を知り、日景主筆に誘はれて鹿嶋屋を知り、新聞記者の月例会で梅月庵を知った彼は、滞釧一月ならずして既に一ト通り粋界の消息に通じてゐた。彼が始めて「釧路新聞」に赴任して来ると意外の人物に邂逅した。それは曾て東京の下宿で知合になった佐藤岩(?)と云ふ男である。其時は三面記者として挨拶されたが、久振りのことであり、一夕酒でも呑んで昔話をしようかとまで考へたが何となく気が進まずそれに金の持合せもなかったので、やめて了った。此の佐藤と云ふのは、彼の小説「病院の窓」に出て来る野村良吉のモデルであるまいかと考へるが、私には之を肯定する丈けの確証がない。其次に会ったのは、前年の夏函館市の弥生小学校で代用教員を勤めた時代、毎日教員室で顔を合せてゐた遠藤隆といふ人であった。知らぬ土地で旧知の人に会ふ、是れ丈けでも啄木には非常に嬉れしかった。加ふるに弥生小学校の思出には、彼の忘れんとして忘れることの能きない橘智恵子女史がある。そこで彼は何とかして遠藤を御馳走したいと考へた。併し懐中には一銭の金もない、それにまだ花柳界這入りも昨今のことで、彼には顔で呑む程の大胆さもなかった。色々苦心の末思ひついたのは理事の佐藤君から貰った銀側の懐中時計である。始めて手にした時は一生離すまいとさへ思った時計であったが、背に腹はかへられず、終に質屋の暖簾を潜ぐって五円半を得た。是丈けあれば先づ大丈夫と早速遠藤を誘って喜望楼に出かけて行き、五番の小座敷を占領して、得意になって盛んに飲んだ。其時に招んだ芸者は小静であった。此の芸者は、啄木の最初の愛妓で「よく弾き、よく笑ひ、よく唄ふ」妓として、非常に気に入って居た。米町の蓬莱座で芝居見物を共にしたり、他の妓を返へして只二人で寒い夜途を歩いて見たり、異郷に在る彼の慰めは暫らく小静によって充たされてる姿であった。小静も亦啄木の何事にも解放的で気取った処のないサッパリした性質に好感を有ち、少し呑み過ぎて苦しんだりすると徹夜してゞも看護したり、時々は啄木の好きなを人知れず貯へて置き、そして彼に会った時にソッとの中に忍ばせてやると云ふ親切振りを見せてゐた。
 
  きしきしと寒さに踏めば板軋む
  かへりの廊下の
  不意のくちづけ
 
  その膝に枕しつつも
  我がこころ
  思ひしはみな我のことなり
 
 二月の半頃からしやも虎の酒に親しむ機会が多くなり、初めは、ぽんた、小蝶などを相手にしてゐたが、段々鹿嶋屋の方に足が向き、此家の市子と清子が彼にとって一日も欠くべからざる必要品となって了った。特に市子は容貌も美しく、芸才もあり、それに齢は十八とあって、若さを誇る啄木には最も適はしい遊び相手であった。其頃寄せた私への短信に市子の写真を添へて、左のやうに書いてあった。
 









 
午前十時頃起きて飯を食ひ乍ら新聞を読み、出社して立つづけに毎日三百行位書くなり。夕刻帰宿して郵書一束と名刺を閲し、返事を出すべきには返事を出して、飄然門を出づるや其行く所を知らず、宇宙は畢寛盃裡に在り焉、浅酌低唱の趣味真に掬すべし。妹共、よろしくと申居侯、就中シヤモ虎の小奴と鹿嶋屋の市ちゃんがよろしくと申居候。草々
   二月十六日夜
                       釧路洲崎町一の三十二 関方
                               啄 木 生
 小樽花園町十四
   沢 田 信 太 郎 様
 
 鹿嶋屋の市子と同じ齢の妓にしゃも虎の小奴(木名坪仁子、十八歳)がある。是が最後に啄木との艶名を謡はれたもので、眼のクリ/\した、ドコやら啄木に肖た感じのする面白い妓で、巧さにかけては市子と甲乙なく、愛矯もあり、よく気転の利く、其当時の流行妓。前に述べた鉄道視察団の歓迎会を喜望楼に開いた時にも、小蝶や春吉などの姐さん株と一座してかっぽれを踊ってゐたが、啄木はスッカリ感心して了ひ、彼の小奴と云ふのは今まで見た中で一番活発だ、気持のいゝ女だ、と頻りに激賞してゐたが、それから半月も経たない中に、其家に繁々通ふやうになり、三月以後は市子にも増して愛するやうになって居た。
 或時彼はしゃも虎に一人で出かけ、二三人の芸者を集めて哄笑を連発しながら杯をんでゐた。蒼白い顔が紅潮して、彼の巧みな話術に一段の冴えを見せ、一座の酒興が漸く高調に達せんとした時、遅れ馳せに入って来たのは小奴であった。啄木は見るなり、オイッお前は晩いから除名したよ、と云った。之を聞いた小奴は只笑って澄まして居た。そして彼が帰りかけるとソッと門口の外まで送って来て、何やら厚い手紙のやうなものを啄木の袂に投げ込むやうに入れ、大急ぎで玄関に引返へして行った。今のは何だらうと、彼は往来で袂から引出して見た。可なり長い手紙だ。淡い軒燈の光りで読んで行くと、貴方の気持はよく分かる、妾は嬉しい、併し無理をしてまで私を悦ばせる必要は少しもないから、失礼ながら此品はお返しする、悪く思うて下さるな、とあって、別に半紙に包んだ女の帯止めが一箇同封されてあった。其帯止めは数日前啄木から小奴へ贈ったものであった。
 彼はそれを見ると一時に赫となった、そして恐ろしい権幕で玄関まで引返し、框へ片足かけて、帯止めと手紙を勢よく投げ込んで、何と云ふことなしに昂然と肩を聳やかして帰って行った。
 
  わが酔ひに心いためて
  うたはざる女ありしが
  いかになれるや
 
  小奴といひし女の
  やはらかき
  耳朶なども忘れがたかり
 
 
(中央公論 昭和十三年五月号・六月号所載)

 

  底本:回想の石川啄木 第8巻
    岩城之徳編  八木書店
    1967(昭和42)年6月20日発行
 

  入力:新谷保人
  2006年12月24日公開