啄木散華
―北海同時代の回顧録―
 
沢田 信太郎
 
 
 
 
 七.洲崎町の下宿屋
 
 例年二月は北海道にとって一番交通事故の多い月である。北西の風が吹きつのり、之に雪が加はると忽ち猛烈な大吹雪となり、天地間たゞ雪の塊まりの乱舞に任かせ、鉄道線路には時ならぬ雪の小山を築き、雪崩が落ちて列車の運行を停めて了ふことは珍らしくなかった。除雪人夫を繰出し、ラッセル車を突進させてもダイヤの狂ひが容易に調節されず自然沿線の各駅には雑穀、木材、石炭と云ふやうな大量の滞貨が山と積まれて、荷主側から苦情が出る、商人側から商機を逸した責任を鉄道当局に持ち込むと云ふ騒ぎを、年々歳々繰返してゐた其頃である。
 鉄道庁(鉄道省の前々身)では此道民の反感を緩和する為め、北海道管理局に命じて鉄道冬季操業視察団を組織させ、道内の幹線全部を一巡して、鉄道側の苦心の実況を見せてやらうとの企が実行され、二月十七日から約十日間に互って可なり賛沢な鉄道旅行を試みたことがあった。団員は北海道庁の商工係と交通係、函館、小樽、札幌三市の商工会議所役員、それに新聞雑誌記者を加へて十数名、私も「小樽日報」を代表して一行の末席に列ってゐた。主人側は管理局長の野村弥三郎氏を筆頭に関係各課長、技師連で、其中には、現満鉄副総裁の大村卓一氏も一工務課長として、素朴な風采で参加してゐたのは面白かった。
 一行の釧路に入ったのは明治四十一年二月二十日の夕暮であった。氷塊の浮游する港内の海面から吹き上げる風は、何様北千島の氷雪の気を孕んで、寒いと云ふよりは痛いと云ふ感じ、外套の襟を立てゝ頸をちゞめて馬橇に乗ったが、当時の釧路は未だ半開の殖民地、駅から幣舞橋までの間は人家は疎ばらで、釧路川の流は厚氷に覆はれ、埃に汚れた黒い雪が路面に凍てついて、馭者の鞭が空に風を截る毎に鬣に氷の鈴を並べた馬がガリ/\と橇を曳き摺って馳る気味の悪るさ、啄木が「釧路は可い処だが、寒いのは欠点だ」と、報告して来たが、正にあたって居た。
 
  吸ふごとに
  鼻がぴたりと凍りつく
  寒き空気を吸ひたくなりぬ
 
 視察団は盛んな歓迎を受けて兼吉旅館に投宿したが、私は途中で一行に別れ、一人馬橇を捨てゝ燈火の乏しい氷の路をべりがちに歩いて、洲崎町に急いで行った。一丁目の三十二番地、そこに啄木の下宿する関といふ素人下宿があった、重い硝子戸を開けて声をかけると、肥った主婦が出て来た。
「僕は沢田ですが、石川君は居ませんか」
「ア、沢田さんですか、先刻あなたがお出でになるから停車場に迎へに出るんだと、仰しゃいましてネ、家の提灯をつけて急いで、お出かけになったまゝですよ、若しか駅でお会ひになりませんでしたか……」
 と云ふ話である。イクラ歓迎の人々でごたついたにしろ、断じて石川に逸ぐれることはない、是は可笑しいぞと考へたが、兎に角主婦の侑めるまゝに、啄木の居室に通って、彼の帰りを待合せることにした。
 表の赤黒く陽やけした畳は足に冷めたく、窓から吹き込む夜風は寒く、上下に開閉する窓硝子には金巾らしい汚れたカーテンが掛けてあった。調度品と云ふものは殆どなくガランとした八畳間に、台ランプを載せた小机が一つ、往来に面した窓際に据ゑられた丈けで、上にはやゝ部厚の雑記帳が二冊と、安物の硯箱と、買ったばかりと思はれるインクの罎が一つ載せられ、読書をする暇もないのか書籍らしいものは一冊もなかった。
 
  さいはての駅に下り立ち
  雪あかり
  さびしき町にあゆみ入りにき
 
  こほりたるイソクの罎を
  火に翳し
  涙ながれぬともしびの下
 
 暫らくして女中は十能に山と積んだ炭火を運んで来て、瀬戸火鉢に移して呉れ、お愛想に煎茶を急須に入れかへて、極めて小型の茶碗に注いで侑めて行った。是が小説「菊地君」に川て来るお芳であったかどうか、顔さへ姿さへ今私の記憶に残ってるものは何もない。私は火鉢の前に蹲くまって頬や掌をざして暖をとった。そこには焼穴のある黒か紺かの羅紗の座布団が一枚敷かれてあった。私は遠慮なく其の上に安坐した。
 私は啄木を待つ間の時聞を利用して、彼の机の上に原稿紙をのべ、視察団一行の旭川から釧路までの動静をかき、其日の通信記事として「小樽日報」に送るべく宿の女中に頼んでポストに入れさせた。其時は既に十時に近かったが、却々帰る様子がない。其中火鉢の火も灰になりかけ、さらでだに底冷えのする海港の夜気が?(さ)すやうに迫まってくる。階下でも既に寝たものか物音一つしなくなった。私も昼の疲れで睡くなり、押入を開けると木綿の固い敷蒲団が一枚に、可なり厚味のある掛蒲団が二枚あった。早速それを引出して冷えかけた体を其中に埋めた。私は洋服の上衣だけを脱いで洋袴もチョッキも其ままで寝た。階下の時計の一時を打つのを、夢の中に聞いて居た。
 私は主人の居ない啄木の居室で、終に一夜を明かして了った。薄墨色の空が少しづゝ明るくなりかけ、黎明の寒気が水のやうに流れて来た。寒い、実に寒い。眼は覚めてるが、到底蒲団の温もりを見捨てる勇気が出て来ない。啄木の帰って来たのは朝の八時頃でもあったらうか、階下で主婦と大声で話合ってるのが聞えた、そして高笑ひをしながら階段を登って来た、室に入ると真面目くさって私の枕頭に坐り、済みませんと一つ頭を掻いた。私がやあと云って起き上がると、又左の手を耳の脇から後頭部の方へ持って行って、顎を引いて眼ばかりキョロつかせながら、どうも何とも……と云って、
「女の子は罪ですナー……折角の歓迎を犠牲にさせて、私を一緒に遊ばせて了ひましたよ」
 と云ふ御挨拶だ。其態度なり、言葉なりが、真底から困ってるらしい慇懃さを極めてるのを見て、思はず私は吹き出して了った。
 彼は又曰ふ
「実は昨晩、まだ時間が少しあると思ってチョッと……ホンの一寸、鹿嶋屋に寄って見たんですよ……さうすると……不可ませんね、市ちゃんと二三子と二人で私の提灯を捉まへて離さないんです、どうもハヤ飛んだ失礼しました」
 恁う云って了ふと、彼は始めて例の哄笑を一つ爆発させた。そして寒いからと云って、まだ幾分温みの残ってる蒲団の中に二人で潜ぐるやうに肩を並べ、寝ながら顔を見合って小一時間も話を弾ませた。
 私は彼の小樽に残して行った家族の生活ぶりを詳しく報告して、何とか至急に呼び寄せる必要のあることを説くと、彼も此家族の問題には流石に頭を悩ましてゐたらしく、頻りに怠慢を詑びた上で、近い中に必ず方針を立てゝ家族を纏めることにするから、それまで迷惑でも面倒を見て貰ひたいと云ふ彼の言明を信じて、此の話を打切りとした。そして二人は飯も喰はずに宿を飛び出し、視察団の一行に加はって、各所の視察に廻ったり、「釧路新聞社」の前で記念の撮影をしたりして、其夜は喜望楼に開かれた官民合同の歓迎会に出席し、宴の終りかけた頃に佐藤理事に伴れられてしやも虎に遊びに行き、啄木と三人で二次会を始め、此席で市子、小奴、静子、小蝶など云ふ彼の所謂「妹ども」に会ひ、彼の遊びぶりを感歎の眼を以て眺め、再び彼の下宿に釧路の第二夜を語り明かしたのであるが、当時の彼は全く酒と女の世界にのみ生きてるやうな有様であった。
 
  火をしたふ虫のごとくに
  ともしびの明るき家に
  かよひ慣れにき
 
  酒のめば悲しみ一時に湧き来るを
  寐て夢みぬを
  うれしとはせし
 
 
(中央公論 昭和十三年五月号・六月号所載)

 

  底本:回想の石川啄木 第8巻
    岩城之徳編  八木書店
    1967(昭和42)年6月20日発行
 

  入力:新谷保人
  2006年12月24日公開