啄木散華
―北海同時代の回顧録―
 
沢田 信太郎
 
 
 
 六.釧路新聞編輯長
 
 釧路は松前藩時代から有数の鰊漁場として太平洋に面した北海道の東海岸に、開拓の歩を進められてゐた港町丈けに、其頃特別輸出港として木材積取の外国船舶が出入し、十勝原野の雑穀が積出され、安田の春採炭坑が稼行され、富士製紙の工場が開設されて来ると、さすがに底力のある発展ぶりを見せて、活気が全町に漲るかのやうに見えてきた。
 後ろ髪を曳かれるやうな悲しい思ひを抱いて釧路入りをした啄木は、北海道五大河の一である釧路川に架けられた長い/\幣舞橋を渡って、一歩釧路の町に踏み込むと、如何にも新開地らしい町並の間に、旋風のやうに動いてる活気に打たれ、白石社長から紹介される代議士や、町会議員や、実業界の頭株などの人々が、さも元気さうに挨拶を交はすのを見て、憂欝な彼の心に緊張味を与へると共に、別の世界を見るやうな明るさも加へて行った。そして愈々「釧路新聞」に納まって見ると、押しも押されぬ幹部の一人として優待されるし、新来の彼を迎へる社内の空気も悪くなし、殊に創業早早の「小樽日報」と違って、編輯でも、営業でも、工場でも総てが整頓されてゐて気持ちがよく、就中竣成したばかりの新社屋が煉瓦建で、粗末な木造家屋で埋められて居た当時の釧路町に、颯爽として誇らし気に新鮮味を示してるのを見て、彼は少からず気を好くした。
 一月二十三日に新聞社の同人が奔走して、彼の為めに洲崎町一丁目三十二番地の関と云ふ素人下宿を捜がして呉れ、其日の中に旅館を引払って、西洋窓のついた二階の八畳敷の日本間に入り、机も宿から借り夜具布団も損料で借り、鞄一つの旅装を解いて、心の落着き処を求めたのであった。
 「釧路新聞」では、白石社長が小樽で私に約束した通り、名目は三面主任と云ふ事にして実際上の編輯長として待遇し、給料も三十円を支払ひ、編輯上の事は一切啄木に委任して好きな様に紙面の体裁を改めさせ、成るべく品のよい新聞を作って貰ひたいと云ふ丈けの註文で、何等の掣肘をも加へなかった。啄木も其知遇に感激して、張り切って編輯に従事し、主筆の日景緑君の同意を得て一二記者の担当替へをした丈けで、熱心に紙面の改良に突進して行った。若い者を喜ばせることに抜目のない白石社長は、恰も彼が洲崎町の下宿に入った翌二十四日に、啄木の歓迎を兼ねて社務の打合せをする為め、彼を主賓に社の最高幹部丈けで、同地第一流の料亭喜望楼に一夕の宴を催した。其席には理事の佐藤国司君(南畝)も居た、主筆の日景安太郎君(緑)も居た。佐藤君は当時三十三歳の少壮政客で千葉県人、曾ては韓国の亡命客黄鉄と結び、一進会の画策を幇けて日韓の間を往来した志士型の人物、啄木が「一見して自分の好きになれさうな人」と云ったのも無理がない。よく光る眼と濃い口髭をもち懐慨淋漓とした政治演説を得意とする処に、当年の面影がよく現はれてゐた。日景主筆は「釧路新聞」の生みの親であり又育ての親で、手刷で時々発行する不定期新聞の時代から旬刊、週刊、日刊と土地の発展と人口の増殖に連れて、苦心経営の結果四頁新聞の基礎を築き上げて来た人で、社の元老であると共に町に対しても相当睨みの利く男になってゐた。肩の張った、眼玉の大きい堂々たる風采、只満山一木も止めないキレイな禿頭で、妙な恰好の毛糸で編んだ大黒帽を目深に被ぶってゐた様子は今に眼に残って居る。
 其夜啄木は三人から社の方針と云ふものを聞き、二三編輯上の注意も受けた。殊に近く五月に行はれる衆議院議員の総選挙に備へて遠からず紙面を四頁から六頁に拡大すること、其為め新活字や印刷機械も注文済みで、程なく着荷の予定になってること、それから西嶋某のやってる「北東新報」と云ふ競争新聞もあるが、是は財政難で問題にならぬことなどを次々と聞かされて、彼は社の内外の情勢を大凡そ頭に叩き込まれたやうに感じた。そして此席には喜望楼(丸コ)の抱妓である小新と小玉と云ふ二人の芸者が、甚だつゝましやかに侍して居た。啄木の釧路芸者を見たのは是が初めであった。
 それから二三日経つと白石社長は社長室に啄木を呼んで、君も就任早々のことで、金も要るだらうから……と云って、小さな紙包を渡された、開けて見ると五円紙幣が一枚入ってゐた(一月二十六日)。其後理事の佐藤君が札幌へ出かけた帰りに、銀側の懐中時計を一つ買って来て、君は時計を有たないやうだから……と云って啄木に貸して呉れた。啄木は生れて始めて時計を有った、と云って非常に悦んだ。序に書き添へて置き度いのは、啄木の日記には此銀時計は五円の金と同時に社長から貰ったものとして記してあるし、又彼の友人に送った書簡や、釧路時代を題材にした小説を見ると、佐藤理事から贈与をうけたやうに書いてあるので、其孰れが真なりやと云ふ疑問が起り、先年当事者の佐藤君に面会しした、私から此点を訊して見ると、佐藤君の曰く、アレは僕からやったものだ、初めから呉れる心算でやったんだが、彼のことだから何時どんなことで失くするかも知れたものでないと考へたから、出来る丈け彼に長く使用して貰ふ為め、故意と之を君に貸して上げると云ったのだ、処が彼も其の言葉を忘れなかったと見えて、釧路を無断で立って東京へ行ってから、借用の時計を其まゝ着服して誠に相済みませんと云ふ長文の詫状を寄越した、彼奴も案外正直者だよ、と笑っての説明を聴いて私も釈然とした。佐藤君は現に釧路市長として令名あり、健在である。
 
 十年まへに作りしといふ漢詩を
 酔へば唱へき
 旅に老いし友
斯くて彼は一心に勉強した。何でも新らしいものに興味を求める性格と、社長や理事や主筆やの態度に好感が有てた為めとで、一時は小樽のことも、札幌の事も、勿論東京のことも忘れたものゝやうに、全心全力を傾けて唯「釧路新聞」の為めにのみ働いた。社説も書く、文芸ものも書く、社会部面の記事に関しては特に留意して、彼独特の才筆を縦横に揮ひ、更に進んで彼自ら市中に特種を漁さり歩き、之を得意の構想で二日も三日も時には五日位も続物として読者を牽きつけて行く有様で、一面と二面は出来る丈け緊きしめ、三面でウンと華やかな記事を満載して、紙面の変化をハッキリさせると云ふ方針の下に、常に目先を新にする事に努力した結果、全紙悉く新鮮味を帯びるやうになり、随って読者の受けも非常に好く、体裁から云っても内容から云っても、地方新聞には珍らしい位整った面白い新聞を作って居た。彼の起した「詞壇」には短歌も出た。長詩も載った。「雲間寸観」には政界財界の時評から社会問題まで論じて、奔放自在の筆を呵した観があった。
 其頃私に寄せた一文がある、世間には未発表のものであるから、原文のまゝ全部を採録する。




















 
アの事は怎も心配でならず、御経過如何に候哉。何卒御知らせ下され度願上候。
それから留守宅の方いろ/\御配慮下され候由奉鳴謝候、何分よろしく願上候。帯広には寄らずに二十一日夜九時半当地着。二十三日表記の下宿に入り候。二階の八畳に火鉢一つでは零度以下の寒さとても凌がれず、下宿の主婦に談判して、炬燵をつけることに致し候へど、大工の都合で二三日延び侯ため、アンカを買って来て机の下に入れ、やうやく筆の氷るのを防ぎ居り候。社は新築の煉瓦造にて心地よし、二日に新築祝ひを盛大にやる筈にて、小生は新案の福引百五十本許り工夫いたし候。
機械来ぬ中は現在のまゝで時々六頁出すことに致し候。紙面の体裁を改めた所、少し評判よし。釧路は気持のよい処、但し寒いのが欠点なり。遙かに阿寒山を望み侯景色もよく候。白石社長は五日頃上京の途につく筈。奥村、金子、鯉江三人の所置を一任してくれと云ふ手紙、谷から社長にまゐり候。奥村君だけは是非喰ひ止めて頂きたく侯。最もイザとなれば、一応帯広の支社に置く事だけは社長の同意を得たり。如何。至急返事まつ。「タニヨリジムノコトシツモンサレタ、コタヘルギムアルカ」と云ふ電信昨日小林より社長にまゐり候。但し社長は昨日朝帯広に行き候故未だ見ず。明日は帰へるならむ。奥村君の番地知らして下さい。何卒よろしく。おひまの時何か書いて下さいませんか。
  一月三十日
                   釧路港洲崎町一丁目
                     関 方 石 川 啄 木
 小樽区花園町畑十四
  沢 田 天 峰 様
 
 文中「アの事は怎も心配でならず」と云ふのは、前に陳べた桜庭睦子女史と私との結婚問題で、啄木自身の交渉が遂に失敗に終った為め、改めて人を介して是非復活運動をして呉れとの彼の熱心なる勧告に対して、兎も角再交渉を開始中であったので、其結果の報告を求めたのであった。最後の小林事務長から白石社長に宛てた電信のことは、恐らく啄木が勝手に披いて見て私に好意的に内報したものらしく、「小樽日報」の内紛が斯うした短い電文の上にも現はれてる程に表面化して居た。当時人の噂さでは小林事務長が刑法各論一冊を懐中にして、釧路行の列車に飛びつくやうにして乗り込む処を見たなどと云はれて居た。
 此間啄木丈けは兎も角「釧路新聞」に拾はれて行って、得意の其日々々を送るやうになり、暗い運命を切り開いて一躍光明の世界に飛び出したやうに、極めて多幸なる生活を楽むやうになった、そして心から感謝の念を以て懸命に働いて居た。
 
 しらしらと氷かがやき
 千鳥なく
 釧路の海の冬の月かな
 
 神のごと
 遠く姿をあらはせる
 阿寒の山の雪のあけぼの
 
 
(中央公論 昭和十三年五月号・六月号所載)

 

  底本:回想の石川啄木 第8巻
    岩城之徳編  八木書店
    1967(昭和42)年6月20日発行
 

  入力:新谷保人
  2006年9月15日公開