啄木散華
―北海同時代の回顧録―
 
沢田 信太郎
 
 
 
 五.啄木の意見書
 
 小林事務長と一騎打ちの戦ひに、二つの大瘤をこしらへて潔く退社はしたものゝ、暮の大晦日から、正月の初春にかけて、目前の生活難は犇々と迫まって来た。元日を迎へても注連飾りもなく、門松も立てず、極かに雑煮らしいものを少しばかり祝った丈けで、老母や夫人や京ちゃんなどと一家を挙げて行火の周囲に正月らしくない顔を互に見交はしてゐたに過ぎなかった。今チョッと彼の手記したものを摘録して、当時の境遇を偲ぶことにする。(元旦の記)






 
起きたのは七時頃であったらうか、門松も立てゝなければ、注連飾りもしない。薩張り正月らしくないが、お雑煮丈けは家内一緒に喰べた。正月らしくないから、正月らしい顔をしたものもない。着た儘の外に一枚もないのだから、紋付も済ず、袴は例の古物一着、沢田君から借りてるインバネスも、飽くまで正月らしくない代物だ。
特務曹長の正装をした日報の佐田も奥村と一緒に来た。白昼の猿芝居を見る感がある。
夜校正の白田が酔払って来た。餅を食はした所が代議士になると快気焔を吐いた。憐れなもんだ。
 彼が折角アテにしてゐた札幌に誕生する筈の新聞も容易に生れず、啄木自身「小樽新聞」の上田社長を訪問して見たが脈がなく、札幌の「北海タイムス」も彼を迎へる程の雅量がなく、正月に入ると俄然彼は窺地におちて了った。唯だ一つ中間に私が立って交渉を進めてゐたものに「釧路新聞」があった。社長は「小樽日報」と同じ白石義郎で、多少共啄木の才を惜しむ気持ちがあり、前年の暮に料亭千登勢で会見の時、是非啄木の前途を引受けて貰ひ度いと交渉した際にも、釧路新聞は拡張計画を有ってるから、石川に行って貰ってもよいが、彼にも意見があるだらうから、先づそれを聞いてからにしたいと云ふので、啄木に其旨を伝へて所謂意見書なるものを提出させて見たが、考慮中とばかりで一向進捗の模様もなく、或は絶望かと思っても見たが、時折石川はどうしてるかと聞く丈けの好意もあるので、時機を待て交渉を再開しようとしてると、恰も一月十日であった、私が只一人編輯局で茶を呑んでると、突然社長が入って来て、石川君はどうしたとの質問である、私は時こそ到れりと言下に彼の窮状を詳細に報告すると、大きく肯づいて紙入から拾円紙幣一枚を抜き、是で何か石川に原稿を書かして、釧路新聞に送らせて呉れまいかと云ふ。私は更に突き込んで是非啄木を釧路の幹部に加へて欲しいものだがと、予ての懸案を一挙に解決しようとすると、社長は笑って、どうも彼の意見書を見ると、いろ/\六ケしい条件があるので考へてるのだと云ふ、それでは無条件ならいゝですかと云ふと、之には何とも答へずにサッサと室を出て行った。そこで私は早速石川家を訪問すると、啄木は例の桜庭女史を訪問に出かけて不在、母堂と夫人の前に封筒に入れた拾円紙幣を出して、白石社長の好意を伝へると、二人共眼に一ぱい涙を湛へて心からの感謝を表してゐた。
 此の問題となった啄木の意見書と云ふのは、四十一年一月十六日に、必親展として節子夫人を使として私に寄せた手紙の一つで、内容は左のやうなものであった。
 
























 
昨夜は御粗末、失礼、
釧路新聞を理想の新聞とする方針として、熟考の結果左の案を得たり。
一、現在の主筆は主筆でよし、
二、奥村君、吉野君を各二十五円にて入れること、
三、外に二十円の三面の人一名入れる事、(小生に心当あり)
四、初めに小生に総編輯をやらして貰ひたし、準備つき次第二面を独立して奥村吉野二君交る/\之を主宰する事、
五、第五面は二面の二君中非番の人之を編輯す、
六、一面は同人一同の舞台、
                以上
右の愚見にして実行せらるれば、編輯局中に一種の共和政治行はる、人数は財政の都合により前記の人頭にても、六頁出せぬ事なし、従来の人は従来の儘にて構はず、奥村、吉野二君共に為すあるの人にして、然かも其人物性行大いに吾人の意を得たり、且つ共に或る野心を有する人なるが故に之を二面の活舞台に於て、充分土地の活人物に接せしむる事大いに好からむ。
奥村君を日報社より抜く事は大兄に於て大いに異議の存する所ならんと雖も、これ天道に悖るものと云ふべし、何故なれば、好漢奥村の如きを庸俗佐田の如きものゝ下に置くは有為の人間を侮辱するものにして、奥村自身も快とせざるべく、大兄亦其非理を知らむ。小生の如きは天下の大不平なり。釧路の地は白石先生が根拠地なり。
然して裡面に於ては、日報既に大兄のあるあり、大兄さへあれば天下太平と称して可ならむ。奥村よし去ると雖も天下の逸才を抜擢し来って之を手足の如く用うる事大兄の胸中成算なしとは云はさぬ。若し右の意見にして全部実行せられうるものとすれば、小生は三年でも五年でも釧路に尻を落付けて大平洋の潮声を共とせん
   二十六日                       啄木
     天峰大兄
 
 此の意見書を提出したと云ふことは、色々のものに記載されて居るが、其内容に就ては知る人が無いのである。白石社長は彼の意見書を見てから、少し二の足を踏むやうな態度に出たのは、要するに彼の意図を計りかねたからであった。折角伴れて行って若しも彼の理想が実現されないと云ふ事から不平でも起されては大変だと云ふ心配からであったらしい。
 此の頃の啄木の窮境と云ったら相当極端なもので、正月二日朝起きると頭がムヅ痒ゆいので、斬髪に行くと十九銭とられた、アト石油と醤油を買ふと一銭も残らないと云ふ悲惨ぶりであった。随って最上の御馳走と云ふのは馬肉汁であったと云ふことを考へて見る丈けでも、凡そ彼一家の生活程度が推測できようと思ふ。
 極度の貧乏から来る生活上の不安と、次から次へと期待はづれに終はる就職口の煩悶とで彼の心は益々曇るばかりであった。七草も済んで世間は漸く新らしい活動に入らんとする頃、彼は最後の質草として、着てゐた羽織と夏まで用のない蚊帳を持ち出し、是で二円の金に代った時は、恐らく彼の貧乏生活もドン底であったらうと思ふ。「家庭の窮状と老母の顔の皺が自分に死ねと云ふ、平凡な家庭の主人公」と自嘲の文句を日記の一部に留めてるのを見ても、彼が脳裏の懊悩と、其緊迫した家計の苦しみは、充分言外に看取されるのである。白石社長から預かった拾円金を届けに行った時は、方さに飢饉の状態に陥らんとしてゐた彼及び彼の一家であった。
 そこで私は極力啄木に説いて、兎にも角にも一度「釧路新聞」に入社して、家庭を現在の窮地から救ひ出す為めに、意見書に書いてある一切の条件らしいものを撤廃させることを承諾させて了った。そして一月十三日に日報社の社長室で、啄木と白石社長とを会見させ、私も同席して両者の間を斡旋し、結局内談の程度で物別れとなったが、翌十四日には社長と私と二人丈けの会談で、「釧路新聞」に啄木を三面主任として入社させ、待遇は日報時代よりは少しでも良くすること、三面の主任と云っても実際は総編輯をさせることなどを決定して、最後に二十円でも、三十円でも此際啄木に赴任手当を呉れることを承認させてから、私から此の決定事項を詳細に彼に伝達してやった。是でヤット長い間の懸案が解決し、生活の方針も立ち、彼としては新らしい陣地を得て、再び才筆を揮ふことになったので、之を聞いた時には流石に喜色満面の様子を見せてゐた。
 其中一月の十八日になって白石社長から仕度金として拾円を届けて来た。少し約束より少ないやうだとは思ったが、啄木は委細構はず僅かばかりの質物を受け出したりして、頗る簡単な旅仕度を整へ、其夜は私の処で奥村寒雨と三人で、暁かけて餅と番茶の送別会をやった。此時も随分色々な問題について論じ合ったが、いつも程の元気がなく、頻りに小樽よりも寒い釧路に行くのはイヤだなど云ってるので、私は態と乱暴なことを云ったりして、彼の心を引立てゝやった。そして当分小樽に残留することになった家族に対しては、力の及ぶ限り保護することを約束し、同時に出来る丈け早く妻子の引取りを実行する事を誓はせ、互に顔を見合って無量の感慨に耽けったのも遠い昔の夢となった。
 啄木は其翌十九日の午前十一時に、折から降りしきる雪の中を愛児と愛妻に送られて小樽を出発したのであった。其日の彼の日誌には「予は何となく小樽を去りたくないやうな心地になった、小樽を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ」と書き、如何に彼が綿々の情と思ひを残して、小樽を顧みがちに去って行ったかは、蓋し想像に余りあるものであった。
 
  子を負ひて
  雪の吹き入る停車場に
  われ見送りし妻の眉かな
 
  敵として憎みし友と
  やや長く手をば握りき
  わかれといふに
 
 
(中央公論 昭和十三年五月号・六月号所載)

 

  底本:回想の石川啄木 第8巻
    岩城之徳編  八木書店
    1967(昭和42)年6月20日発行
 

  入力:新谷保人
  2006年9月9日公開