啄木散華
―北海同時代の回顧録―
 
沢田 信太郎
 
 
 
 
 四.桜庭睦子女史
 
 桜庭ちか子女史は啄木が「小樽日報」の遊軍記者時代からの知合で、初め何人の紹介で会ったのか知らないが、私の入社した頃は啄木に頼まれて新聞の挿絵を描いたり、カットの画をかいたりしてゐた。
 昔松前子爵邸が浅草の七軒町にあった頃、子爵家の家扶を勤めてゐた桜庭為四郎と云ふ人の娘で、当時は小樽の潮見台小学校の訓導であった。師について学んだかどうかは聞かなかったが、性来画才に恵まれてゐたらしく、彩管に親しんでる中に画技が自然に上達し、其頃何でも達者に描ける才媛の一人であった。それに書道にも堪能で、美事な筆跡で漢字仮名何でも御座れの健腕を見せて居た。
 啄木の頼む挿絵は彼一流の奇抜な考案になるものが多く、いろ/\と注文をつけて画いて貰ふのだが、女史の才筆は充分画意を生かして、面白いものが出来るので彼は非常に喜んでゐた、此為めに紙面はいつも気の利いたカットや挿絵で一段の生彩を発揮してゐたやうであった。
 私が編輯長になってから一度奥村寒雨の案内で、挨拶の為め女史を訪問したことがあったが、通勤する小学校に近い関係からか母堂と令兄の居る相生町の家を離れて、独り真栄町の白鳥と云ふ親戚の処に寄寓してゐた。品の好い大柄の婦人で、低いがハッキリした声で万事控へ目に応待して居た。
 啄木は日報社をやめてからも相変らず女史を訪問しては、文芸談をやったり、時には婦人間題を聞かせたりして、親しい交際を続けていた。そして社内の同人が集まって、女史の事を話題に上したりすると、彼は大呑込みに呑みこんで、女史の問題なら僕が責任を以て解決する、彼の女だっていつまで独身でゐるものか、屹度僕は一週間の中に責任を以て結婚を断行して見せる、其相手もチャンと考へてあるのだが、マア云はずに置くことにする、と云って皆の興味を唆り立てゝ居た、其時女史は二十四歳であった。
 明治四十年も歳晩に近づいた二十五日に、突然東京から谷寿衛と云ふ人物が日報社に舞ひ込んだ。何でも出資者の山県勇三郎との縁故からで、小樽日報社理事と云ふ肩書がついてゐた。私は其日白石社長の紹介で初対面の挨拶をして、翌日から編輯で顔を合はせてゐたが、刷らせた大判の名刺を見ると「法学士、子爵」と三号の活字を使ってるのが目についた。
 社長は、山県に頼まれて無職の彼を余儀なく当分預かったのだと云ふし、谷は谷で、俺は是から社を整理して、将来の発展を計画するのだと云ふし、両者早くも対立の形勢が見えたので、社内の空気が妙に硬化し、特に編輯一同は谷の一挙一動に注目して、日増しに何と云ふことなしに反感を強めて行く形勢となって来た。
 ソンナ事を少しも知らない谷は、編輯と事務を一人で駈け廻はって、何か知ら偉らさうなことを云っては、社員を捉へて威張り散らすので、益々評判が悪くなるばかりであった。
 痩せ細った五尺をチョッと出た位の小男で、眉の薄すい、目の曇った、口ばかり目立って大きい、そして荒さんだ生気のない顔色をしてるので、工場の職工連は一般に亡者と呼んでゐた。着任当時は洗ひざらしの白っぽい縞の袷に縞の羽織を着てゐたので、一層風采を醜くして居たが、程なく迎へた四十一年の新春に入ると、十四五歳の中学生でも着るやうな粗らい紺絣の書生羽織を引っかけて、母衣を背にした落武者のやうに、背中一ぱいに風を孚ませて飛び歩くので、早速之を漫画のモデルにして、皆が腹を抱へて笑ってる有様であった。谷子爵は京都府下の小藩主の家らしく、当年三十六七の公達らしくない公達であった。
 或日此の谷子爵は、毎日幇間のやうに取巻いてゐた鯉江天涯に東道させて、桜庭女史を訪問し絵が好きと云ふなら東京の名ある画かきにイクラでも紹介してやる、其代はり是から懇親を結ぶ為めに一週一度日曜毎に、ドコか静かな場処で会ふことにしたい、と勝手放題の話をして来た上に、翌日大勢の社員を前に置いて、イヤ桜庭も噂さ程の美人じゃないね、どうだらう嬖妾にでもなる気がないものかね、と放言したとかで、早速此の事を鴻鏡や寒雨の口から啄木の耳に伝へられたから耐まらない。さらでだに多情多感の彼は、之を聞くと勿ち激怒し、貧乏華族の遊治郎に我が睦子女史の神聖を汚させてなるものか、僕は飽くまで正義の為めに彼女擁護の責任を執らなければならぬ、と云った勢ひで、飽くまで谷の策謀の裏をかく心算で、先づ相生町に桜庭保(女史の兄)を訪ひ、日報社の挿絵を画くことは女史の為めに宜しくないとの理由で、兄保の名で谷理事宛に挿絵執筆を正式に断らせ、其足で真栄町の寓居に女史と会見して、谷の下劣極まる陰謀を喝破すると共に、日報社との仕事上の絶縁を勧告し、更に進んで女史に向って好配偶があるから即時結婚を断行するやうにと彼一流の快舌に一段の熱誠をこめて、淳々と飽かずに二三時間も説き立てたと云ふのである。是等は普通の常識では一寸判断のつきかねる一種の軽快味とか、乃至は壮快味とかあって、如何にも啄木らしい独特の行方であった。
 明治四十一年、明けて二十三の初春を迎へた彼は、少しも正月らしくない正月を眺め、只窮乏生活の中に悶々の日を如何にして消すべきかに苦慮した様子は、彼の残した日記に痛ましくも描かれて居るが、其中に紅一点とも見るべき一月十日から五日間に亘る桜庭女史と私との為めに尽くした、結婚媒介奔走記だけは、活々とした彼の血と肉とが躍るやうに点出されて居り、而も其詳細を極めた記述の中に、人間石川への全貌が剰する処なく表現されて居るのを見て、私は心の底から感謝せずには居られなかったのである。只遺憾なるは今其日記を公開する自由を有たないことである。
 さて其日の桜庭女史に対する結婚勧誘の模様を、彼の手記したものに就て、概要を撮まんで見ると、遉がの彼も此の問題を女史の前に持ち出すまでには余程躊躇したものらしく、日記には一問一答、其時其場の情景の変化まで手にとるやうに書き列らねて居るが、折角話の緒口をつかんでも、思はず言葉が淀んで、急に核心を衝けなかったらしく、漸く勇を鼓して、貴女には結婚の意志が全然ないのかと突き込んで行くと、俯向いたまゝ返事がないので、更に語を強めて

 
私に一人の友人がある、少年時代から東洋流の豪傑肌で、有名だったと云ふことだが、或る大悲劇に遭遇して性格が一変し、今日では……。
 と私の生立ちから現在までの経歴、人物、更に自分に輪をかけた程の朝寝の癖のある事まで、長所も短所も彼の見たままの天峰観を事細かに説明し、最後に此事は本人の沢田君には、何の相談なしにお話しするのだと付加へると、意外にも女史は、ソノ事なら沢田さんから御手紙がありましたとの答へに、大に彼は驚いて、沢田奴、先き回はりして旨まくやってるナと思ったが、其手紙と云ふのを見せて貰ふと単に


 
「自分は今、貴女と結婚することを、或人から勧められて居る、其為め虚心で御交際することは能きない、私の一切をブチまけて自分の心に一点の曇りもなくしてから、御交際することにしたい。」
と書いてある丈けなので、大に安心して更に交渉を進めて行くと、結局親兄弟に相談した上でなければ御返事は能きないが、私一人の心持ちを申上げると、喜んでお請けいたします、と低声ではあったがキッパリと確答を与へて呉れた。そこで彼は始めて満足さうに笑って、愈々貴女と沢田君の結婚式が挙げられたら、僕はお祝ひに郷里の盆踊りを踊りますよ何しろ是は函館の大火最中に家族の前で踊ったと云ふ歴史つきのものですから、是非お目に懸けますよ。など云って、相当冒険のつもりで飛び込んで行って、美事に陥落さした成功の悦びに浸りながら、最後には冗談まで連発して、女史を盛んに笑はせながら、得意満面で帰って来た。彼の日記には女史が最後の一諾を洩らした瞬聞の光景を叙して、

 
しづかに俯いた白い顔にホンノリと散らした紅葉の色、洋燈の火影にうつるほつれ毛のゆらめき、それはたしかに夢の中に見るやうな、美しいものであった。
 と記してある。巧みに彼に追窮されて、絶対絶命、諾か否かと云はねばならなくなった婦人としての羞耻の情、其情景は僅か此数行の彼の手記に依って、充分其文字の上に看破能きると思ふ。
 此日の夜晩く、啄木は私を訪問して来た。座に着くや否や「勘弁して呉れ給へ、実は今日出過ぎたことをして来た」と云ふ。余り出し抜けの詑言に少々驚いてると、




 
「実は予てから桜庭女史を以て好配偶と考へ、君の奥さんとして推薦しようと思ってる矢先に鼠輩谷の陋劣極まる運動開始を聞いたので、僕の気性として黙視することが出来なくなり、兄に予め諮らなかった罪はあるが、実は今日彼女を訪ふて具さに君の境遇を語り、且つ若との結婚を勧告したところ、彼女も僕の誠意を酌んで、遂に快諾を得て来たのだ、サア今度は君の番だ、諾か、ソレとも否か……」
と短兵急に私を攻めて来た。実は此の事のあるは四五日前に寒雨や、露堂などからソレとなく情報を得てゐたので、啄木の訪問前に私から女史に宛てゝ前記のやうな書面を出してゐた位であるから、此の厚意に充ちた啄木の提案に対しては、何とでも答へ得る準備がある筈であるのに、さて愈々当面の問題となって見ると、さう簡単に返事も出来ず、一時思案に困ってると、隣室に寝て居る私の母まで起して、コンナ良縁はありませんよ、と熱心に勧めて同意させ、私も異議がない旨を答へると彼は飛び上らんばかりに喜び、大勝利々々々と連呼しながら、午前一時半頃に帰って行った。
 それからの彼は、仲人と云ふものは昔から忙がしいものなんだよと云って、此の問題の為めに連日のやうに奔走して呉れた。相生町の桜庭家を訪問したり、兄の保君に会って結婚の日取りを相談したり、真栄町に女史を訪ねて其後の心境を確めたり、又それを一々私の処に報告して挙式を急ぐ準備をさせたりして、丸五日間と云ふもの万事を放擲して私の為めに働いて呉れた。そして最後に双方の相談が熟したものと認めて、一月十四日に自分で結納品を桜庭家に持ち込み、愈々正式の申入れをして見ると、女史の母堂が頭痛がするからと云って面会を避け、人を以て、まだ函館の親戚から返事が来ないから今二三日猶予して貰ひたい旨を取次がせたので、彼は悄然として困った/\と云ひながら、私の家に報告に来て呉れた。そして其後の形勢は段々楽観を許さなくなり、探ぐりを入れると女史の母堂は昔気質の一徹から、親の自分を差し置いて娘に直接交渉するなどは怪しからんと、感情的に反対を唱へてる事情も判かったので、彼も大に悟る処があって其後色々と円満解決の為めに骨を折ったが、終に母堂の怒りを釈くに至らず、一月十八日先方から人を以て、啄木の処へ今回の問題は初めから無いものとして、お諦らめを希ふ旨、最後の断りを述べて来たので、彼の好意に充ちた折角の運動も、是で終幕を告げることになった。
 
 
(中央公論 昭和十三年五月号・六月号所載)

 

  底本:回想の石川啄木 第8巻
    岩城之徳編  八木書店
    1967(昭和42)年6月20日発行
 

  入力:新谷保人
  2006年7月14日公開