啄木散華
―北海同時代の回顧録―
 
沢田 信太郎
 
 
 
 
 三.事務長と一騎打
 
 其頃の啄木の住居は小樽の花園町畑十四番地にあった、と云ふ字で判る通り全くの新開地で、粘土の交った赤土の山の尾根を削ったばかりの道路に新築の家屋が立ち並び、ネオンサインに彩られてる現在の繁華街とは凡そ想像の出来ない程の寂しい町であった。一時間借をしてゐたと云ふ南部煎餅屋にも近く、狭い路地を入った二軒つゞきの平家で、通路に面した処に九尺の格子窓があってソコに小さい机を据ゑ、瀬戸火鉢を置いて茶の間を書斎替はりに使ってゐた。
 月給二十五円の三面主任、縦横に健筆を揮って、日々の紙面を彼の思ひのまゝに彩ってゐた得意の時代ではあったが、離散した一家を纏めたり、借家の敷金を入れたりして、社に対しては前借又前借で、月給日の袋には現金のあることもあり、ないこともありと云った風に、依然たる貧生活に悩まされてゐた。其為め奥の六畳室には畳も襖も入れる余裕がなく、空家同然にして床板の上を下駄ばきで便所通ひをしてる有様であった。私が小樽に赴任して二三日経つと、啄木はどうせ空けてるのだから此室を遣って呉れないかと云ふので、それでは家賃を折半して負担することにでもしようと軽ろく引受けて、十一月の二十三日から私は畳や建具を持ち込んで、母と二人で啄木の空き部屋に同居して了った。
 前の室に彼は夫婦と母堂と京子ちゃんと四人が住み、奥の座敷には私等母子二人が居るので、朝晩の食事時などは割合賑やかに過してゐた。殊に啄木と私は孰れ劣らぬ朝寝坊で午前八、九時頃まで寝床の中で新聞を読み、境の襖越しに互に大声をあげて寝ながらの編輯会議をやるので、私の母などはヒドク之を嫌やがってゐたやうであった。そして起きると大いそぎで顔を洗ひ、食事もそこ/\立ち乍らお茶を呑んで、二人連れ立って出社するのは十時半から十一時の間であった。
 併し啄木も私も実によく勉強した、一面二面は私の担任であったが、啄木も随筆風のものを書いたり、新刊書を批評したり、気の向いた時は評論を出したりして、第一面の材料を能きる丈け豊富にして呉れた、私の書く毎日の社説に対しては常に辛辣な批評を加へて自分の意見を滔々と陳べたりした。兎に角午後零時半にはキチンと一面を締切って、赤々と燃え盛かるストーブの傍で軽るい昼食を摂り、それから互に二面三面と別れて外交の持ってくる材料を整理する外、自ら記事を書いて紙面を充実することに努力した。
 啄木と私とは編輯室の一番奥まった処に、壁を背にして卓子を並べ、殆ど競争の姿で筆を執ってゐたが、仕事にかゝった後の彼の態度は実に真剣で、煙草も吸はず、口も利かずにセッセと原稿紙に向って毛筆を走らせる丈であった。何か快心の記事を書くとさも愉快さうにニコ/\して、自分で原稿を工場に下げに行った。工場では啄木の原稿は大歓迎で、非常な人気があった、それは第に字のキレイなこと、次は文章の巧みなこと、それに消字が少くて読みよいことと云ふので、文撰長などはスッカリ此点で啄木崇拝家になってゐた。
 其間に社内の粛正工作が逐次行はれ、宮下小?が去り、西村樵夫と野田黄州がやられ、代はりに市役所に勤めてゐた奥村寒雨を入れたり、白田北州を窮境から救ひ上げたりして兎に角編輯局の空気が一新されるやうになったが、販売や広告の事務の成績が挙がらないのと、工場設備に期待した程の資金を投じて呉れないので、敏感の彼は漸く社長や社主の態度に疑惑を有つやうになり、一抹の不安が前途に現はれて来ると、一気呵成に革新を断行しようとした彼丈けに、反動的に当初の熱意を冷却して行った、殊に大嵐の後の社内の大平無事も彼としては退窟の種であった。そこへ札幌の露堂から、今度代議士の中西六三郎が社長となり、小樽の富豪高橋直治が金主となって、新に有力な新聞が札幌に生れると内報して来たので、彼は此時とばかり札幌通ひを始めて、此新計画に乗り出して行った、其結果私にも日報には将来性がないと云ふ見透しの下に、極力新興新聞に相携へて乗込むことの得策を説き、君は矢張り編集長で、僕は社会部長でやるのだから結局同じ事じゃないかとまで云って呉れたが、私は確答を躊躇した。
 十二月十一日の午後彼は三面の編輯を了はると、今日も一寸と札幌へ出かけるから宜しく頼むと云って、蒼皇として出て行ったが其晩は帰らなかった。翌十二日に私が一人で一面二面三面の編輯をしてると、事務長の小林寅吉がやって来て、石川は毎日のやうに札幌へ行くやうだが、社を怠けるとは怪しからん奴だ、事務に届を出さして下さいと偉らい権幕で奴鳴って来たが、私も虫が納まらず、事務長の越権的干渉を排撃して一先づ問題は片づいたものゝ、是が為め非常な不快の感を抱いて夕刻帰宅し、不味い晩飯を認めてる処へ啄木は異様な姿で帰って来た。
 今小林に社で殴ぐられて来た、僕を突き飛ばして置いて足蹴にした、僕は断然退社する、アンナ畜生同然の奴とどうして同社など出来るものかと、血走しった眼からボロ/\涙を零(こぼ)してる、見ると羽織の紐が結んだまゝ千切れてブラリと吊がり、綻びに袖口から痩せた腕を出して手の甲に擦過傷があり、平常から蒼白の顔を硬張らせて、突き出た額に二つばかり大瘤をこしらへ、ハア/\息を切って体がブル/\悸へて居た。私も之には驚いた、早速応急手当をして二人で公園館と云ふ下宿に佐田鴻鏡を訪問し、三人で善後策を相談したが、啄木は飽くまで退社を主張して譲らず、事務長を首にするまでは断じて復社しないと云ふので、翌朝私は社長を訪問して、書面で事務長の暴行一件を報告すると共に、迅速なる処分方を要求して置いた。併し社長は何と思ってか問題にせず、荏苒日を送る中遂に十六日付を以て、啄木は退社理由書を社長に叩きつけて、凱旋将軍のやうな態度で社をやめて了った。
 
  汝が痩せしからだはすべて
  謀叛気のかたまりなりと
  いはれてしこと
 
  椅子をもて我を撃たむと身構へし
  かの友の酔ひも
  今は醒めつらむ
 
  負けたるも我にてありき
  あらそひの因も我なりしと
  今は思へり
 
  殴らむといふに
  殴れとつめよせし
  昔の我のいとほしきかな
 
 此の小林事務長こそ、昔政党華やかなりし頃、帝国議会に「蛮寅」の勇名を謡はれた、現福島県選出代議士中野寅吉君の前身であった、純情の中野君は啄木の意図を思ひ違ひして、若かりし日に先づ其一撃を試みたのであった。
 
 
(中央公論 昭和十三年五月号・六月号所載)

 

  底本:回想の石川啄木 第8巻
    岩城之徳編  八木書店
    1967(昭和42)年6月20日発行
 

  入力:新谷保人
  2006年6月14日公開