啄木散華
―北海同時代の回顧録―
 
沢田 信太郎
 
 
 
 
 二.小樽日報に入る
 
 明治四十年五月五日端午の節句に函館入りをした啄木は、苜蓿社の主宰者となって、雑誌「紅苜蓿」に全力をつくしてる中に、八月二十五日夜の大火に遭ひ、折角営みかけた愛の巣の青柳町の新家屋を小樽に移すことに決意して、啄木自身は焼跡に瞬たく無数の燈火に別れを告げ、九月十三日の夜単身函館を後に再び流転の旅に上り、十四日の午後苜蓿社の同人向井夷希薇や松岡蕗堂に迎へられて、彼自ら詩の都と命名した札幌に旅装を解き、同県人の小国露堂の紹介により「北門新報」の校正係となったが、在社僅かに半月ばかりで小樽に去り、新興「小樽日報」の遊軍記者となった。
 此の新聞は、当時北海道財界の傑物と謡はれた山県勇三郎の創立したもので、社長は元福島県選出の代議士、其頃北海道議会の議長をしてゐた白石義郎の担任、資金は山県の実弟で中村組の頭取をしてゐた中村定三郎が賄ひ、「北海タイムス」や「小樽新聞」を向ふに回はして、勇ましくも呱々の声を挙げたものであった。
 社主の山県は六尺豊かの大男で、容貌魁偉、一生を独身で通した異り種、単身愛知から、北海の波涛を越えて根室に渡り、浜茄子の咲く砂山続きの原野に牧場を開いたのが始まりで、日清と日露の両戦役には船舶で儲け、トン/\拍子に巨富を掴かんで最後は米国のテキサス州に新天地を開拓した一代の風雲児、「小樽日報」の生れた時は恰も渡米の準備中であったが、初号発刊の祝宴に態々函館から出馬して、主筆以下の社員を前に一場の訓示を与へ、爽快味の溢ふるゝ雄大の抱負を述べて、理想に燃ゆる啄木の若い血潮を沸き立たせたことは非常なものであった。
 
  手が白く
  且つ大なりき
  非凡なる人といはるる男に会ひしに
 
  大いなる彼の身体が
  憎かりき
  その前にゆきて物を言ふ時
 
 社主や社長が、社が独立経営の出来るまでは、一年に一万の金は捨石にする方針だ、と宣言するのを聞いて彼は正直に喜んだ、それに社長の白石は、干軍万馬の間に政治家としての修養を積んで来た一見大人風の男で、多少の文芸趣味も解して居るらしい処から、彼一流の観察を下して日報の前途を相当に楽観し、同時に彼自身の立場を有利に展開することを考へてゐた。そこへ三面主任の野口雨情によって、主筆岩泉江東排斥の口火が切られ、社内の空気が何となく改革を希望する微妙な動きを見せて来たので、別にハッキリした理由もなかったのであるが、雨情と共に主筆逐出しの策謀に突進して行った。併し此の策動は金子孤堂の口から洩れて、十月十五日に初号を発刊した後、工場整理の為めに休刊してる中に、主筆江東の反撃が効を奏し、首謀者の野口雨情が三十日に馘られ、意外にも啄木は約束より五円多く給料を貰って、雨情に代って三面の主任を命ぜられ、招かずして得意の地位に据ゑられて了った。
 之を主筆の懐柔策と睨んだ啄木は、却って反感を増長された形となり、密かに目的達成の機会を狙ってる処へ、当時札幌へ転任してゐた私が、偶然彼を小樽に訪問して、花園町の家庭に母堂や夫人と久濶を叙する遑もなく、藪から棒に「小樽日報」の編輯長を引受けて貰へまいかとの交渉をうけ、一時は返事に窮した位であったが、彼の燃ゆるやうな熱意に動かされ、彼の説く日報社の内情に合点がゆくと共に、彼と協力して理想の新聞を作ることに異常の興味を感ずるやうになり、会談四時間にして、遂に彼の要求に応じ、日報入社を承諾して了った。そこで彼は節子夫人を走らせて二合ばかりの酒を買はせ、二人で牛鍋を突つきながら、遅い昼飯を食べて、サア是から早速運動を開始するのだと云って、午後四時頃の汽車で私と札幌に同行し、白石社長を北一条の寓居に訪問したが、其夜は不在の為めに要領を得ず、翌朝再度の訪問も効なく、空しく小樽に引返して行ったが、其時私に左の手紙を寄せて来た。
 






 
今日はどうしても社長に逢ふ時間なしとの事、但し明日は小樽に来る由故、残念乍ら此儘帰り候、尤も兄の事其他概略手紙に書いてやり候、
委細明日社長と会見の結果。
今日四時の汽車にて帰り候、結果は手紙か又は再び札幌に来るかの二つの道によりて御知らせ可致候。
   十一日午後一時半               啄木
    天峰兄 侍史
 
 封書の裏には如風逸民拝と書いてあった、此号は小樽と釧路丈けで使ったもので、元より一時の気まぐれにつけたものと思はれる。私は之に対して直ぐ返事を出してやった、そして日報入りの決心に聊かの揺るぎもないことを強調してやると、十一月十四日の夜になって、小樽の啄木から
「ダイセウリイサイシメン」イシカワ
 と云ふ電報が入った。遂に彼は主筆江東の趁ひ出しに凱歌をあげたのであった。私が此の電文を手にしてる処へ、慌しく小国露堂が来訪し、矢張り啄木から成功した旨の電報を受取ったらしい口吻で、今後の日報社の改革について、いろ/\と意見を陳べて帰ったが其時は夜半の一時を余程過ぎてゐた。
 かくて翌十五日になると、果然啄木から戦況報告が次々と飛んで来た、今その中の第一報と、第二報を原文のまゝ掲げて見る。

















 
戦況第一報……希望確実
アカシヤの子の君の御手紙、昨日御令弟より難有頂戴いたし候。愈々この御決心、我党の士の為めに万才を三唱すべし。
社長昨日来る筈にて来らず、本日来る筈にて来らず、明日こそ愈々来るとの事に候。
然れども小生の札幌行は決して無益に候はざりき。昨日出札して本日帰社せる小林庶務、本日小生を別室に呼びて白石社長よりの伝言を伝へて曰く、大体君の意見に依る故安んじて筆を執られよと。小生は札幌を立つ時意見の概略を認めて社長に送りしに候ひき。
明日は関ケ原なり、震天動地の改革恐らくは意外に早からむ。天下分け目の戦ひ、月桂冠をうくる者我等に非ずしてまた誰ぞ。機械活字は本年中に完備すべく候、六頁になる迄は模範的の四頁新開を作らむ。既に六頁なりたる時は其二頁だけを市中に商況を主とする夕刊として発行する計画也。明年一月より半ケ年間の大活動は天下の大勢をして、我が掌中に帰せしむ。
工場の信用は既に我が掌中にあるものゝ如し。
   十三日夜九時                   啄木
     天峰大兄 御侍史
二白、昨日小林庶務、社長の命によりて道庁に兄を訪ひしも、兄不在なりしと申居り候。









 
戦況第二報
万才!!! 万才!!! 万才!!!
本日社長来り決定せり、但し○は初めから高いよりはアトで月に二度でも、三度でも上げるからと云ふので当分三五円也。何卒当分だけ我慢願ふ
出来る丈け早く赴任セラレヨ
アタマは明日宣告をうくべし
残党は二三日中
 万才/\
   十四日午後四時                  啄木
     天峰兄
 
 私も啄木と同じ様に函館を大火の直後に飛び出して、北海道庁の役人になったのは十月十二日であった、それから僅かに三十六日目の今、啄木の誘引によって小樽の操觚界に転じようとしてるのである、十七日に辞表を提出して十九日に退官の辞令を貰ひ、札幌で一度白石社長に会見して、二十日の午後猛烈な暴風雪の日に小樽に赴任した。
 主筆江東は社内の大勢を察して十五日に「最後の一言」を草して紙上に載せ、之に対して啄木は「主筆江東を送る」の一文を以て酬ゐ、白石社長から解任を宣告されて去った岩泉江東の後に白面の一書生に過ぎなかった私は、前途の波潤を想像しつゝも血気に任かせ敢然として其椅子についたのであった。
 併し社内は割合に平静で、特に工場は啄木から予告された通りに、一糸乱れず、各職場について忠実に働いてゐた。彼は排斥運動開始以来病と称して社を休んでゐたらしく、私の就任後も一日丈け欠勤し、愈々十一月二十三日の秋季皇霊祭当日に開催した編輯会議から出動して、私と気を揃へて縦横に活躍した、紙面にも自づから活気が漲って来た。
 
 
(中央公論 昭和十三年五月号・六月号所載)

 

  底本:回想の石川啄木 第8巻
    岩城之徳編  八木書店
    1967(昭和42)年6月20日発行
 

  入力:新谷保人
  2006年6月13日公開