啄木散華
―北海同時代の回顧録―
 
沢田 信太郎
 
 
 
 
 一.まへがき
 
  何となく明日はよき事あるごとく
  思ふ心を
  叱りて眠る。
 
 石川啄木逝いて二十七回目の忌辰が来た。二十七は短かい彼の一生の行事でもあった。明治四十五年の四月十三日、満開の桜花が帝都の街頭に散り始めて、そゞろ徂く春の名残りを惜しむ人々の心を打つかのやうに、彼は小石川の貧居に卒然として終焉を告げて了った。
 生前に志を得なかった彼は、終始貧乏に悩まされつゝも、性来の負けじ魂を捨てずによく戦ってゐた。そして明日に期待する心に叱咤の声を聞かせながら、永久の眠に入って行った。
 
  年明けてゆるめる心!
  うつとりと
  来し方をすべて忘れしごとし。
 
 彼が地下に眠むって幾春秋を送ってる中に、此の歌の如く来方の一切を夢の如く忘れたことであらうが、彼の死後に於ける世上の盛名は、彼の夢を驚かすに足るものがあり、彼を嘆美する声が全国に充満する勢ひのあることを考へると、彼の不朽の生命がいまも尚ほ溌剌として、当年の意気を示してるものと云っても差支ないであらう。私は彼が一生を通じて最も健康であり、元気であり、そして最も波潤を極め、最も人間味を発揮したと思はるゝ北海道時代、函館から札幌、札幌から小樽、小樽から釧路へと、啄木の動くところ必ず天峰ありで、何の因縁か絶えず行動を共にして来た関係があるので、今にして三十二年前の交遊を回想すると、万感胸に迫まるものがある。
 今その思出の糸をたぐって、未だ世に知られてない小樽時代の彼の活躍ぶりと、釧路新聞時代の彼の生活ぶりを中心に、周囲の人々との交渉を織り交ぜて北海道の啄木の如何に多彩であったかを端的に述べ、私としては啄木追善の散華曼陀羅の一文とし、彼の霊前に供へると共に、常に彼の全貌を知らんと力むる、啄木を懐かしむ人々の為めに、其生活記録を提供せんとするものである。
 幸ひ三十年来筺底に蔵ってあった明治四十年と四十一年の日記が現はれたのと、啄木の手記したものゝ中で私に関した部分のものが全部発見されたりして、正確な資料が集った為め当年の記憶が歴然と甦へり、互に若かった頃の火の出るやうな生活ぶりが展開され、それに啄木からの書簡や、関係方面からの来信まで揃って、愈々其頃の事態が鮮明を加へて来たので、其の中の最も興味ある部分と、啄木らしい特色の現はれてるものを先づ採録して見る事にした。若し時日がゆるすならば更に函館の苜蓿社時代からのものを追補して、彼の面影を充分に伝へたいと考へて居る。
 
 
(中央公論 昭和十三年五月号・六月号所載)

 

  底本:回想の石川啄木 第8巻
    岩城之徳編  八木書店
    1967(昭和42)年6月20日発行
 

  入力:新谷保人
  2006年6月13日公開