啄木と逢った頃
 
高田 紅果
 
 
 
 小樽日報の創業に参加して、啄木が小樽へ来たのは明治四十年九月二十七日である。その日記の末尾にこう書いている「中央小樽に着す。向井君の四畳半にて傾けし冷酒の別盃、酔未ださめず、姉が家に入れば母あり妻子あり妹あり、京子の顔を見て、札幌をも函館をも忘れはてて楽しく晩餐を認めたり」当時小樽駅の助役を勤めていた義兄山本氏方へ落ち付いたのである。筆者が啄木に会ったのは、それから一ヶ月余も後の事であった。
  かの年のかの新聞の
  初雪の記事を書きしは
  我なりしかな
と歌集「一握の砂」の北海道回想歌の中に、当時のことを歌っている。丁度晩秋十月二十六日に初雪があった。旭川の野砲連隊へ応召中の宮崎郁雨に宛てた手簡に――朝八時に出社、昼飯と夕飯は編集局で喰ふ、世の中が馬鹿に急がしい、天長節には一しょに一つ飲む事、待たるゝ/\、今夜当直一時頃でなければ帰れぬ、今朝初雪、紅葉と雪のダンダラ染は美しい、窓外霙の声あり――と書いている。日報社の二階編集室の窓から小樽駅裏手の俗称松山を眺望した時の印象を寸描したものだ。あの頃の駅裏の富岡町丘陵は現在のように、住宅も建て込んで居らず、駅舎から間近に松山の東側が迫って見えたであろう。常盤樹の濃緑に、漆や雑木林の黄葉紅葉が、散らぬ内に初雪が降って、錦繍に白雪の染め分けをダンダラ染めと詩人は美しく感じとったものらしい。
 十一月一日の日記に、「此の日より三面を主宰す」とあり、六日「花園町畑十四番地に八畳二間の一家を借りて移る」とあるだけで十二月十日迄が空白で記入が無い。丹念に日記を書き、実によく手紙を書いた啄木が、十一月には前記宮崎へのハガキと、二十二日に藤田武治へのハガキを書いているに過ぎぬのである。創刊忽々の社内の仕事に逐われていたのが想像に難くない。一両日中に拙宅へ来たれとの簡単な返信であるが、「明治四十年十一月二十二日午後五時」と、時間迄書き入れて、「拙宅は公園通高橋ビヤーホールの少し向ふの北一山沢店でお聞きになれば解ります」と註がつけてある。商家の見習い店員をしていた藤田は、当時日報社が見習い記者を採用するとの噂を聞き、文学者志望の少年は、好きな道に進みたいと啄木に面会を求めたのに対する返信だった。一両日後に啄木を訪ねた藤田は、直ちに初対面の印象を、筆者に知らせた。ちっとも気どった処など無い、書生ッポ風な坊主頭の、全く若々しい白皙の青年であったと。文学のペンと新聞記者のペンとは、似ているようでも全然相違していること、真に文学を研究するなら、寧ろ現在の立場で研究を続けるべきである等、懇切な忠告を受けたという。
 日記もつけず手紙も書けぬ、多忙な張り切った記者生活の中で、特に藤田のために時聞を割いてくれ、親切に後進者に指導を惜しまぬ温情に筆者も少なからず敬服したのであった。初雪が来ると今でもあの若かった頃の、藤田と倶に啄木を訪ねたことを思い出すのだ。憧憬に輝く眼をした、二人の文学少年を迎え入れて、若い記者啄木が文学の先輩として、詩歌の話、新詩社の内輪のこと、当時の文壇の傾向についての感想等々滔々と議論と感慨とを浴びせかけるので、全く少年達は敬慕と讃嘆の眼を瞠って、聞き惚れて終う。その日啄木は情熱に燃えた然かも仲々の話上手で、巧みに対手の興味を惹きつける魅力を持っていた。盛岡訛りの混じった郷土的なアクセントも、筆者にとってはやはり一種の魅力であった。上田敏の訳詩によるヴェルハーレンやメーテルリンクの象徴詩の気分や西欧詩壇の傾向、ワグネルの楽劇の偉大な構想と組織について等、全く倦むを知らぬ、広い文芸の世界を展開して少年達に語り且つ解釈してくれたものである。藤村の「落梅集」だの泣菫の「ゆく春」短歌では薫園の「小詩国」紫舟の「銀鈴」など読み耽って、新らしい歌や詩作に幼稚な思いを凝らしていた。この年少詩人は全く奔放なそしてガイハクな詩話に酔わされて終った。だがこんな新進の詩人が、あやめの五匁包の真中を切り抜いた個所から、刻莨をつまみ出して、長煙管につめてスパスパと美味しそうに紫煙を吐き、鉄幹を論じ勇の短歌を語るのを、どうも少し調和がとれぬような気持で、みまもったものである。実はやっぱり巻煙草を吸っていて貰った方が、格好がついたかと窃かに思った。生活が逼迫していたので、家庭では刻莨を喫っていたのだ。啄木は煙草は相当好きだったらしく、上京後も煙草を切らすと、随分苦しい寂蓼感に襲われた様子が、日記に見られる。今は故人になった藤田の少年時代の日記に、この頃の記事があって、啄木先生と書いている。彼は啄木を先生と呼ぶことに、喜こびと得意とを感じていたに違いない。筆者は日記に何と書いたか、その日記などが残っているかどうかも、探してみようともせぬのである。死生問題の疑惑と死の恐怖に脅えた藤田が、その後啄木を訪ねて、人生の帰趨を聴くと云った風な煩問を訴えたとき、ショペンハワアの悲観哲学と、ニイツェの超人説を論じ、個人の完成と個人主義を説いたと、藤田が筆者に語っていたが、日記には「藤田来たり切に人生を解するの途を訴う、大いに個人主義を説く」と簡単に書いてある。
  あをじろき頬に涙を光らせて
  死をば謡りき
  若き商人(あきびと)
「一握の砂」の中に、この少年を歌っている。彼は桧山江差町の生まれで、文才に恵まれた秀才肌の少年だったが、どちらかと云えば神経質な、一見弱々しい感じを与える型に見えた。南砂町の雑穀問屋浜名商店に見習い店員として勤めていた。父は山田町に住んでいた。裁縫師で腕のよい評判があった。日報の新年文芸には長詩の選に、藤田と筆者が天と地賞に選ばれて、すっかり嬉しくなった。その後「秀才文壇」という投書雑誌にも、美文や詩歌に幾回か入選し、文学少年の間にはかなりその名が謳われていた。「秀才文壇」に掲載された「明笛」という美文は、今でもロマンティックな好い短文と思っている。
 啄木が去ってからの小樽にも、短歌を作ったり詩作をする仲間が、ぽつぽつと我々の周囲に集まった。二三人集まって歌作を楽しみ、詩話に耽る機会が出来るようになった。道庁の拓殖課の技手を勤めていた青年で鰊の缶詰事業をやり度い希望で来樽した、松本清一という青年が現われた。彼は歌は稀により作らぬが、仲々鑑賞眼の鋭い人物で、啄木とは札幌時代よく知り合ったと云っていた。啄木日記にはこの松本の事が見当らぬが、然し函館から札幌入りをした事など、実によく知っていたのである。多分啄木を北門新報に幹旋した小国露堂と、郷里を同じくした宮古町の出身である点から想像すると、小国と別懇の間柄であり、殊に社会主義思想では、寧ろこの松本清一が先輩格であったと思われる。藤田や筆者等の幼稚な文学作品を、松木は実に温い心やりで読んで、親切な批評や感想を漏らして常に鼓舞してくれた。共感してくれる仲間の無い時に、こうした理解ある先輩の存在がとても得難い尊いものだ。缶詰工場の計画は資金を出す側に故障があって遂に不成功に終り、彼はアルバイトに教育関係の書物の販売外交をやったりした。彼は所謂社会主義理論は唯物論的に趨り過ぎるとして、芸術的社会主義が提唱さるべきだと当時の社会主義者の唯物な傾向を批難した。「平手もて/吹雪にぬれし顔を拭く/友共産を主義とせりけり」の歌は、恐らく松本を歌ったものと筆者は今でもそう思っているのである。松本は後にまた道庁へ復職して、増毛支庁に勤めたが、病を得て入院加療中小樽の愛生病院で遂に斃れた。啄木に先立つこと二年、明治四十二年の晩秋である。藤田と筆者とで緑町の洗心橋傍にあった説教所へ運んで、ささやかな葬式をした。その頃は自動車など無いので、担架で死骸を運び、付添の人々は客馬車でその後ろから続いた事を、遠い記憶から喚び起こす。晩秋の夜空に月が浮かんで、葉の無くなった落葉松の梢の上に、黄色な月を仰いで、筆者は涙を流して感傷に沈んだ。芦花の「寄生木」の主人公小笠原中尉は、松本の同郷の先輩であると云っていた。乃木将軍の知遇を受けた多感な青年士官と、この水産学校出身の若い公吏と、俊敏で多血質なこの二青年の短い生涯を、筆者は今でも何かつながりのある悲劇の中の人物と観て居る。
 郷里の宮古町へ帰って、余生を送って居ると云う、小国露堂が未だ存命であったら、札幌での彼と松本と啄木との接触の様子を、訊きただして見度い念願である。啄木が死んだ翌年の夏、筆者は若い経済学者のモデルと云われる、丸谷博士を旭川の歩二七連隊の五中隊に訪ねた。この五中隊が偶然にも小笠原中尉の所属の隊であり、連隊の裏手に小笠原が住んだという合同官舎(独身士官寮)を外側から見せて貰った。丸谷氏は未だ長崎高商の講師時代で、志願兵として応召して居った頃のことである。さすがに隊の中でも芦花の「寄生木」の話が知れ渡って居たのか、文学的な話題として説明してくれた。筆者は其の時松本のことを語ったかどうか記憶せぬが、こうした処にも何かしら繋がりがあるような、不思議な因縁を感ずるのである。(昭和三十年七月二十四日稿)
 
(遺稿―歌誌「原始林」昭和三十年九月号所載)

 
(左から高田紅果、松本清一、藤田南洋)
 

  底本:回想の石川啄木
     岩城之徳編 八木書店
     1967(昭和42)年6月20日初版
 

  入力:新谷保人
  2006年5月21日公開