風雪被害余聞
 
石川 啄木
 
 
 
 
 去る八日の大風雪被害に関しては昨紙第三面殆んど全面をあげて報導する所ありしが、今左に少しく其余聞を報ずべし。
▲雪に埋れたる一家 オコツナイ四番地平民田中栄六方の一家五人の住屋の潰倒と共に七尺の雪中に埋れ、十数時間の後漸く池野警部一行の為掘出され微傷だも負はざりし旨は昨紙に略記し置きたる所なるが其氏名左の如し。
  戸  主 田中栄六(六九)
  長  男   甚蔵(四九)
  甚蔵長男   六蔵(一六)
  同 長女   タセ(一四)
  同 次男   甚六(八)
猶当日魚売に当町に来りたる主婦某と報ぜしは甚蔵の妻某なりし由なり。
▲吹雪に捲込まる 大吹雪の真最中午后二時頃、第三小学校前に四十五六の婦人帽子を眉深く冠りシヨールを堅く纏ひたるが跼(うづくま)りて波止場より吹き上ぐる雪風に捲込まれて息塞がり背上には飛雪(ひせつ)層を為し見るさへ危機迫りたる一刹那、通り菟(かゝ)りし青年広岡某は斯くと見て驚き駈け寄つて厄抱し背中撫で卸ろしなどして懃りつゝ宮川公証役場の前通りまで連れ来りたれば、漸く己れに返りて厚く礼を云ひ別れゆきたりと。
▲釧路警察の活動 九日朝風雪漸く止むや、釧路警察署にては直ちに署員全部を督励して町内被害状況を警邏せしむると共に井上巡査部長渡辺巡査は数名の人夫を率へて知人(しりと)及び鬼呼(おにつぶ)の圧死者発掘及び検視に向ひたるが、午後一時更に池野警部主任となり丹野、森、二巡査及び二十余名の人夫を統率しオコツナイ、オソキナイを経て桂恋に向ひ、同夜は桂恋に一泊し、翌十日更に前進して毘砂門を踏査し午後二時帰署したるが昆布森までは積雪の為遂に行く能はざりしと云ふ。
▲第三学校の一夜 記者の一人は八日第三学校の児童学芸会に臨まんとて午後一時頃猛烈なる風雪を冒して同校に達したるも僅かに二三十名の生徒参集したるのみにて遂に流会となり、別項記載の如く次の日曜に延期する事となりたるが、午後五時頃蛮勇を揮つて帰り来らんとて職員諸氏の留むるをも聴かばこそ無理に立出でたりしも、行く事僅か半町許りにして積雪臍(ほぞ)を没し足を抜く事能はず。剰(あまつ)さへ烈風の為に殆んど呼吸をつづけ難く十分間余も其所に佇立したる儘雪と戦ひ居りしに、坂下より一名の鬼の如き大男辛うじて上り来り、一二町下にて一人の婦人身体の自由を失ひ居る旨を語りたるが、此男も寒気の為既に舌の自由を失ひ居り。以上の事も漸くにして記者の耳に聞取り得たる程なりし。記者は此言をきゝモハヤ駄目だと決心して直ちに第三学校に引返し其旨語りたるに、直ちに
▲二名の決死隊 を送つて該婦人を救功するに決し、山沢山内の二教員すぐ様結束して風雪の中に突進したるが、帰来の報告によれば既に現場と覚しき所に達したる時は四五人の男来りて該婦人を救助し去りたる後なりしと。記者は同夜同校に一泊して帰りたるが、夜中僅か四枚の布団に今校長以下職員六名外に川向の生徒一名と記者と都合八名、芋虫の如くなりて眠りたる様は仲々に滑稽なりし。
 
 
(釧路新聞 明治四十一年三月十二日)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2006年3月12日公開