辰丸事件の真相
 
石川 啄木
 
 
 
 
 昨二十八日午後五時三十七分発の東京電報は、辰丸事件臨機英断の処置をとるべく、和泉艦上海より香港に急行せりとの報を伝へ来れり。日清両国間には、今間島問題を初めとして、満洲に於ける利権問題あり。今又此辰丸事件なるものあり。交渉又交渉、荏苒(じんぜん)として徒(いたづ)らに日を更ね、国民挙つて我外務省の無能を責め、一刻も早く事件の解決を告げんことを希望す。蓋(けだ)し我国と清国との関係は、共に絶東に相隣して、且つ清国の内情多端なるが故に、対清開係の奈何は時に帝国の将来の対外方針に影響するものあり。国民が熱心に此等問題に注視する、又所以なきに非ず侯。
 辰丸事件とは何ぞや。今少しく其真相を摘記して以て読者諸君の参考に供し、更に後電を待つて、此注目すべき問題の成行を観測せんとす。
 該事件は、二月六日、神戸辰馬商会所有汽船第二辰丸が南清澳門沖に於て、銃器密輸入の嫌疑を以て清国軍艦の為めに不当抑留を受けたるより、端なくも重大なる国際問題を惹起するに至りたるものにして、今外務省の調査に依れば、該船は去る一月二十六日午後三時、香港揚げ雑貨千五百噸及び今回事件の因をなしたる貨送人大阪栗谷商店の小銃九十四箱(千五百挺)弾薬四十箱(四万発)此噸数約二十九噸を積載して神戸を発し、翌二十七日午後五時門司入港、同港より香港揚げ石炭千七百噸を積み、三十日午後二時抜錨、澳門に向ひしものにて、該銃器弾薬が密輸入品に非ざることは澳門官憲の輸入許可書、神戸税関の特許状、同地水上警察署の許可書に依りても明かなる事にて、同船が之を船艙内に積載せず露甲板上に搭載し置きし事実は、一層明確に之を証明するものといふべく候。
 然るに該船が澳門沖に着して投錨するや直ちに清国砲艦四隻同船を囲み、一切陸上との交通を禁じて道台の命令書を交付し、広東に同行すべきを命じたるものにして、其際多数の清国水兵が船内に侵入し来り、檣頭に掲げたる日章旗を撤して之に代ふるに黄竜旗を以てせんと迄したる由なるが、之だけは船長の抗議によりて中止したる由に候。
 此抑留行為は明かに帝国の航海権を侵害したるものにして、其不法なること言を俟たず。吾人は必ずしも清国政府が軍器密輸入を制止する権限なしといふものに非ず。然れども、該事件たる、単に其銃器弾薬を露甲板上に搭載し置きたる為、之を見たる神戸の清国商人が密輸入なるべしと推測を下して本国政府に密告したるものにして、清国政府は之に対して何等正確なる調査をなしたるものに非ず。
 且つ、更に聞く所に依れば、今回密輸入の嫌疑を受けたる銃器弾薬は安宅商会を経て澳門広和号(清人の経営せる銃器弾薬店にして、香港、広東に支店を有せる大商店なり)其他一二清商の買取るべき契約あるものなるが、従来本邦より同店へ軍器を輸出したる例は少なからず、而して之れが手続は軍器を積載せる汽船澳門港に入港すれば、澳門政庁は直に軍艦を派し、之れが監視の下に該軍器を端艇に移し一旦之れを同政庁の倉庫に収め置き、同政庁は更に十分其の販売先を調査したる上にて、之を荷受主に引渡す事となり居れる由にて、辰丸に於ても相当の手続をなし居れるに拘らず、清国軍艦が今回の暴行を敢てしたりといふに至りては問題の真相既に明瞭なるものと云ふべく候。
 和泉艦の急行が果して何等の新報道を齎らすや否や、帝国政府は果して臨機英断の処置を以て帝国の威信を存続するの勇気ありや否や、暫く記して後報を待つ事と致候。
 
 
(釧路新聞 明治四十一年三月一日)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2006年3月1日公開