紅筆便り
 
石川 啄木
 
 
 
 
▲さてとや予てより釧路粋界に出没して怪美人の名を擅(ほしいまま)にし一度は帯広函館屋に現はれて人並に左褄も取つたといふ有名なかな子殿胸に畳んだ陰謀を兎耳子に素破抜かれて奔別とかに高飛したとの噂ありしもそれは何かの人違ひにて川向に潜伏して居るとは聞きしも其所在定かならざりしが一昨五日午後三時半頃の事突然浦見町は某理髪床に顔を出して一つ剃つて貰つてからフム釧路新聞の野郎奴人の事許り悪口吐きやがつてと鼻息頗る荒く帯の間から財布を取出して逆さまに振つた所がガラ/\と音立てゝ出たもの金四十銭と二厘也其二厘をコヽは種銭だと再び財布に仕舞込んで四十銭だけ南部せんべいを買つて居合せた客に振舞つたとの事に候▲此四十銭二厘女史には昨日より鹿島屋に出る事と相成候由序ながら申添まゐらせ候▲鹿島屋と云へばコレモ一昨五日の晩の事例の市ちやん三味線の一の絃を切らしたので縁起がよいと許り躍り上つて再びお客の居るのも忘れて母さん姉さん叔母さん三味線の一が切れたよと家中を躍り廻り候由▲丸長の小染一昨晩のアノ大吹雪の中をコートに身を包んで勇気凛々例の如く或人を或蕎麦屋に喰へ込んだまではよかりしが隣室の客に気をかねてモノにならず一円の花銭を握つたまゝエイ寒い晩だよホントニ▲昨紙にて休坂奇談と云ふを御披露申上候ひしがこれは武冨私道奇談とでも申すべくや一昨夜十二時過ぎの事鹿島屋を出でたる二人連の客あり何れも酔歩蹣跚(まんさん)として好い機嫌なりしも面を向け難き吹雪にたまりかね一人は後向になつてアノ坂を下りしが丸コの門の前にてどう磁石の針が狂つたものか深さ三尺余と見ゆる溝の中へ真逆様に転げ落ち暫しは立ちも上らざりし由惜しい事には其名を聞洩し申候かしこ。
 
 
(釧路新聞 明治四十一年三月七日)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2006年3月7日公開