予算案通過と国民の覚悟
 
石川 啄木
 
 
 
 
 財政の問題たる、国民の休戚に関する事最も直接にして、且つ国政調理の方針一に此に繋がるが故に、何(いづ)れの国の何(いづ)れの議会たるを問はず、予算案や実に他の一切の議題の上に重要視せられて、最も慎重精密の討議を費さる。かるが故に又予箕案は常に官民両党争因の伏在する所にして、如何なる大政治家と雖(いへど)も未だ其編む所の予算案を毫末の批議なくして議会を通過せしめ得たる者なし。既に然り、況(いはん)や今期議会に於ける如く、内に幾多の増税案を含みて、民衆多数の負担を重からしむるものあるに於ては、其形勢の一起一伏、直に白刃を閃かして政府の運命を脅かすものあり。風雲既に議場を圧す、彼の閣僚諸公が其与党を率ゐて死生を此一挙に賭し、民党亦白兵を提げて驀然肉薄を試みたるも亦宜なる哉。然も今や第二十四議会は、尨然たる六億有余の大予算に対し、一厘一毫の削減なくして之を通過せしめ、其重大なる責任の大半を尽し了りて、政府党をして雷の如き歓呼の声を放たしめぬ。
 先是、案の未だ議場に現れざるに当りて早くも内閣諸公と元老との間に確執を生じ蔵逓両相の先づ冠を掛けて其席を空うするあり。内閣総辞職は伊公の所謂時機尚早の故を以て聖上の聴許を得ざりしと雖ども、山西両派の政系茲に危機を示して、桂侯の如き亦密かに憤る所あり、総交迭の遠きに非ざるを伝へられしが、下院にありては、開議劈頭先づ不信任案を提げて民党の激烈なる戦火を揚ぐるあり、増税案の討議に入るに及んでは、実業団体の反対決議と内外相呼応して、具(つぶ)さに奮戦苦闘を尽せしも、右党の為めに多数を制せられて勝つ能はず、かくて予算案の討議は両党第三次の決戦にして又今期議会に於ける関ケ原なりき。民党の諸雄大勢の既に動かすべからざるを知ると雖ども、旗鼓堂々陣を進めて健闘殆んど余力を剰さず。(一昨紙第一面参照)然も予算案は遂に一厘一毫の削減に会はずして下院を通過したり。議場内外の民論極力其通過を呪詛したるに不拘、六億の大予算は遂に吾人の予期の如く下院を通過したり。下院既に如斯(かくのごとし)。上院の形勢亦頗(すこぶ)る政府党の為に有利なるを見る。然らば即ち吾人国民は今や此尨大なる予算の負担を余儀なくされ了りたるに似たり。不知、吾人は奈何の覚悟を以て此重税に対する義務を国家に尽すべき乎。
 予算案の通過は政府及び其与党をして凱歌を奏せしめたり。然共(しかれども)、吾人は此苛酷なる増税を余儀なくする予算の確立は、之を協賛したる政友会の諸氏は勿論、内閣の諸公と雖ども決して衷心より之を喜ぶものに非ざるを信ぜんとす。蓋(けだ)し、此予算案の通過を以て直ちに西園寺内閣若くは政友会の勝利なりとするは、未だ能(よ)く大勢に通ぜざるの言たらずんば非ず。現内閣が政友会を率ゐて終始議場に多数を制し、政府案を確立せしめたるは事実なりと雖ども、政府案の勝利は必ずしも内閣若くは其与党の勝利に非ざるを見る。現内閣は議会に勝ちて却つて民望を失へり。乃ち未だ以て真の勝利と目すべからず。第二十四議会に於ける絶対の勝利者は、政府に非ずして増税案なり。否、此苛酷なる増税を余儀なくしたる尨大の軍事費なり。試みに之を政界の浮浪漢たる大同派の行動に見よ、彼の一派は決して現内閣の存続を希望する者に非ざるは、不信任案討議の際に於ける彼等の去就に見ずしても既に明なる所、然も予算案の大論戦に当りてや、彼等山桂両棟梁の命に服して静然たる事宛(あたか)も枯林の如かりしに非ずや。之決して大同派が政府党に盲従せんとしたるに非ず。尨大なる軍事費の威力厳として彼等を圧したるに依る。可知、政府は軍事費の傀儡(くわいらい)にして、国民挙つて其奴隷とせられつゝあるを。
 吾人は、彼の政府に盲従するを以て愛国の本義なるが如く説く偽愛国家の言動を憎むこと蛇蜴(だかつ)の如し。吾人は予算案の通過を予期し居たるは事実なれども、六億有余の大予算が帝国の国情に適合したる予算に非ざることは吾人略々説を民党の諸雄と同うす。予算委員会に於ける大石氏の熱罵に対し、軍事費の過多ならざるを説明せる寺内陸相の言は吾人猶之を記憶すと雖ども、然も事実に於て此大予算が軍事費に偏したるは争ふべからず。吾人が独り静かに考へ来るの時、国民全体を苛税に苦しめてまで猶軍備の完成を遂げざるべからざるの理を発見する事能はず。然り、此度の予算が帝国の国情に適合せるものに非ざるは殆んど言を俟(ま)たずして明なり。然も一度眼を開いて世界の大勢を見るに当りてや、吾人は茲(ここ)に此杜撰(づさん)なる予算を以て、直ちに之時代の大勢の為に止むを得ざるものなりと断ぜざるを得ず。見よ、英国は今世界最強の海軍を有するに不拘(かかはらず)猶年々其軍事費を増加しつゝあるに非ずや。独仏二国の議会亦過大なる海軍費を可決し、露国は今正に其驚嘆すべき艦隊再興費を第三議会に要求して、其形勢に依つては解散を断行せんと代議土を脅かしつゝあるに非ずや。米国の議会は大統領ルーズベルト氏の要求したる国防費に向つて多大の削減を加へむとすと伝へらるれども然(しか)も其廻航艦隊が巨額の費用をも厭はずして現に今太平洋に向ひつゝあるは、蓋し又同国も漸く軍事費の為めに頭脳を悩ますべき時代に到達したるを示すものに非ずとせず。見よ、世界は今や尨大なる軍事費てふ魔王の蹂躙に委せられたり。痩せたるに流網を打つ老漁夫も、陋巷粥を啜る貧家の婦も、今や軍神の威力の為に其血を吸はれ其骨を削らる。吾人亦不幸にして此時に生れたるが故に、年々歳々苛税の為に苦しむものなるのみ。通過したる予算案は之を奈何(いかん)ともする能はず、吾人は国民の義務を尽さん為には譬へ餓ゆとも辞する者に非ず。然れども吾人は先づ税吏の前に叩頭するに先立ちて沈思する所なかるべからず。深く沈思して而して、帝国主義の妄想を胸中より追はざるべからず。空莫たる妄想を排除して然る後に須らく先づ「世界の一等国」なる美名の価値を詮考すべし。吾人論じて既に茲に至る、嗚呼国民将来の覚悟奈何。吾人は読者の胸中既に多少の感あるべきを信ぜんとす。(石川生)
 
 
(釧路新聞 明治四十一年二月二十一日)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2006年2月21日公開