最後の一言
 
江 東
 
 
 
 
◎うたかたの寄せては返す浪の音のおどろ/\と昨日も今日も変らねど、夕は旦の水にはあらで、逝くものは昼夜を止めざる世に、何れが常住なるものゝ候ふべき、生るゝ者は必ず死し、会へる者は早晩(いつしか)分れ哀別離苦の恨み、老少不定の歎きは、輪廻の軌(わだち)、流転の巷を須叟(しばらく)も離るゝことぞなき。されば吾れ人共に、出る息引く息を生死の分目と思ひ、行住坐臥を離合の境界と覚悟し、縦しや如何なる瀬戸に臨むとも、取紛(とりみだ)し、又は怨み哀むなどなきやう、心懸くるこそ人間平生のたしなみなれとは、三世の教師が遺誡にて承はりけるが、イデヤ武夫が最後の一言を繰り返し見んかな。
◎「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」とは、元亀、天祥の俊傑蒲生氏郷が、豊閤の毒害に遭ひたりと心づきての辞世なりき。一点世を怨み、人を恨むの陋なく、春花狂風にかこつけて猿郎が心短きを諷し、彼をして悔い覚らしむる処、真に自然に出で、余韻百世に響きて、熱血児を泣かしむ、何等の高、何等の崇ぞ。
◎「萌え出づるも凋むも共に野辺の草何れが秋にあはで果つべき」是れ平民の昔、浄海の愛妾祗王が其身に秋風の吹き荒みたるに大悟し、己れと寵を争へる者へ遺して、遁世したる最期の一首にはあらずや、一葉落ちて秋沿ねきを知る、仏が解脱の門に入りたるは、真に此歌の賜ものぞかし。
◎「卑怯な言をいふな」是れ日宗の明師新井日薩がその臨終に侍して、遺誡を求めたる子弟に対し与へられたる一喝にはあらずや。死は生るゝと其時より予々(かねがね)覚悟して、平生(つねづね)のたしなみある身が、何とて臨終の際迄兎や角思ひ遺すことのあるべきぞ、唯だ夫れ卑怯の言なきをこそ士のたしなみとこそ申すべけれ。
◎「又なき宝を敵の手に渡さんこと遺恨の極みなり、打破(うちわ)つて呉れんづと千烏の香炉を猛火に投げ入れたる末心地よげに自害したる者」是松永久秀が最後にして、「天下の銘器を一火に附せんこと心無き業に似たり、イデ我が愛馬と共に敵将秀吉へ贈りて永く世に伝へさせんとて、一々重宝を城外に運び出させたる後、心徐かに生害したる者」是れ明智左馬が最後にはあらずや、大丈夫焉んぞ後者に倣はざるべき。慷慨僧五岳詩あり、曰く、


 
汪絶太湖一鞭風。雲濤汪渤馬似龍。番兵瞠若空在後。空溟徒望飛電跡。君不看本能寺中鼠喰馬。凶兆早見悪夢裏。天王山下争雌雄。猴面孺子遂成功。逆中守順是亦忠。不忍崑玉附一火。嗟君心広々於琵琶湖。清風留在唐崎松。
◎島田沼南、故田中耕造等の徒四五相共に文部の官を罷められ、島田、田中ら平然として事務を見ること連日に渉る。俗吏ら之を見て怨みを挿んで悪戯を為され(ん)ことを虞れ、窃に時の卿に向つて登省差止を申請す。卿乃ち驚いて彼等を難詰すれば、何ぞ図らん各主任の残務を整理し、後の引継ぐ者をして渋滞なからしむるに努めつゝあるなりき。茲に於て卿は忸怩(ぢくぢ)、俗吏ら黙々。
◎石田三成、関が原の戦ひ破れて捕に就くや、関東の諸将ら交々其面前を過りて謾罵嘲辱し、以て其平生に報い、一人の怪む者なし。独藤堂高虎自ら己れの外衣を脱して三成に与へ、慇懃旧の如し。三成暗黙唯だ涙を以て之に応ふ。此間の消息を解する者知らず幾干(いくばく)か在るべき。
◎「君子は交絶て悪声を放たず」是れ孔子生前の金誡。「本来生死無し何れの処にか離合存ぜん」是達磨出世間の大喝。「君子は世に施す猶ほ芻狗を造るが如し、其報を期せざるが故に其憾みなし」是れ老冉一代の警句にはあらずや。
◎人は唯だ人を以て己れの如くせんとするが故に怨みあり、生ある者は世を挙げて己れに便利ならしめんとするが故に世に不足なき能はず、嗟、離合、嗟、生死、渠れ抑も何するものぞ、末後唯だ是れ一弾指あらんのみ。
 
 
(小樽日報 明治四十年十一月十六日・第二十三号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2005年12月12日公開