礼文丸遭難詳報
 
石川 啄木
 
 
 
 
 当区南浜町六丁目一番地藤山要吉氏所有汽船礼文丸(総噸数三百五十七噸三四)の遭難に関し、同船長若平喜太郎氏の語る所左の如し。
 同船は増毛、留萌、苫前、初山別、遠別等各港へ寄港して天塩方面に向ふべし。去る六日午前三時当港を抜錨せしが、増毛、留萌を経て同日午後三時五分苫前に着したる時は、天候既に険悪にして西南西の風漸く烈しく、港内浪高くして安全に碇泊する能はざるより、同時二十五分直ちに錨を抜いて汽笛を鳴らしつゝ警戒を加へて沖合に出でしも、烈風雪を巻いて呎尺(しせき)を弁ぜず。風力刻々に加はり来りて遂に怒濤の為に左舷の錨鎖を切断され、午後十一時頃に至りては更に舵機の鉄鎖までも切断せらるるに至りしを以て止むなく機関の運転を停止し、破損の箇所に応急の修繕を加へしが、時恰も焼尻岬の西端を南西三浬に見る沖合に在りし。此時更に澎湃(はうはい)たる高浪相次いで襲ひ来り、上甲板に積める貨物及び石油四十五個、生魚八籠其為に浚ひ去られ、中甲板第一後室の昇降口よりは海水浸入し来りて船体の傾斜四十五度に達し、上甲板は絶えず激浪に洗はれて危険云ふ許りなければ、船長遂に意を決して、第一後室積載貨物中、白米百二十俵、四斗入の酒、醤油、味噌、砂糖、煙草、縄筵其他、雑貨合せて百二個を海中に投棄するの止むを得ざるに至り以て辛うじて船体の傾斜を復する事を得。昇降口破損の箇所及び錨鎖等に手入し、船底に浸入したる海水を汲出しなどして、底板一枚の下が千尋の奈落、船乗の身にも珍しき大時化に一向(ひたすら)神仏念じて的(あて)も無く漂流しつつありしが、翌七日午前十一時頃に至り風浪較々(やや)勢を減じたるを以て、本船の位置を測定し針路を南西にとりて進みしに、午後四時漸く雄冬岬を煙波の間髣髴の中に認め、船員一同漸く心を安んじて南少西に舵を転じ、同日午後九時当港に帰港せり云々。
 
 
(小樽日報 明治四十年十二月十一日・第四十三号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2005年12月11日公開