汽車中で夫婦約束
 
石川 啄木
 
 
 
 
 昔の駕(かご)は今の汽車一銭五厘のハガキが千里の遠く迄使者(つかひ)にゆき電話でお惚気をいふ手取早い時代なれば、同じ汽車に乗合せたが縁で夫婦約束と人間一生の大事が決するも無理な話に非ず。福島県刈田郡大鷹沢村生の小野省蔵(二一)といふは今迄函館にありて某医師の許に薬局生をして居た青二才なるが、此度旭川なる友人(ともだち)を頼りて同地に赴く途中函館より汽車に乗りて恰(あだか)も膝つき合せたる、秋田県平鹿郡生れと許り至極怪しい素性の阿部サメ(一六)と怎(ど)う話が逸(はず)んだものか、去る四日晩中央駅に下車して稲穂町第二火防線通角定旅館に投宿したる際は既に夫婦気取にて宿帳にも省蔵妻サメと記し置きしが、同夜警官に踏込まれ危ふく密売淫にて引致されんとしたりしも、両人共汽車中にて夫婦約束をしたるものにて合意上の事なればと冷汗を流しての弁解に説諭を加へ免(ゆる)したる由、十六の小娘にして此事あり、末恐るべし。
 
 
(小樽日報 明治四十年十二月八日・第四十一号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2005年12月8日公開