小供二人を置去
 
石川 啄木
 
 
 
 
 宮城県松島生れの理髪業日光喜蔵(三六)といふは、本年四月妻子四人を国元に残して当区に来り稲穂町寿亭附近の牧口寅吉方に厄介になるうち稚内某理髪店に傭はれ行きしが、妻スゲ(二七)は夫喜蔵の手紙により家財売払つた二十五円を衣服の襟に縫ひ込め長男茂(一〇)二男藤太郎(八)三男某(四)の三人を携へて去月十七日当区に来り、縁辺に当る花園町公園通り左官職桜井某方を訪ねしも、スゲが果して同家の親戚なる日光家のものなるや否や国元へ問合せの後でなければ世話が出来ず、それまでは何処なり他の知己(しるべ)に身を寄せよと云はれ、止むなく前記牧口理髪店に頼み入れしに、義侠なる寅吉早速承諾して母子四人を自宅に寝泊させて世話しつゝ、直ちに稚内なる喜蔵に電報にて其旨を通じやりしにソヨとだに返事なく、况(ま)して本人も来らず。然う斯うして居る内にスゲは国元なる情夫某と電報にて牒(しめ)し合せ、十九日夜茂藤太郎の二人を置去にして三男の某だけを連れたる儘中央駅より函館行に乗込み、後は野となれ山となれ。此寒空に北海くんだり迄来て何になる、それよりは生れ故郷で好いた男と暮すに如かずとドロンをキメ込みたるより、取残されし子供二人は未だ年端もゆかぬ十歳や八歳、母を尋ねて泣き喚(わめ)く状(さま)の不愍さに、寅吉啣煙管(くはへぎせる)して男乍らも涙を飲みしが、再三喜蔵に手紙を送れども矢張谷問の山彦だにも返事がないので、一時は喜蔵に説諭願、スゲの捜索願を其筋に出さんとまで思ひしも、その後前記桜井に行きて談じ見しに、同家妻女某の親戚なる事判明したりとの事にて、憐れなる子供二人は去る五日遂に桜井方に引取られし由。父も父なり母も母なり。東西も知らぬ産の児二人を知らぬ他国に突放すとは人の心持てるものゝ仕業にはあらず。或はスゲは最初より子供を喜蔵に渡したなら直ちに郷里に帰る決心で来たものにて、襟に縫ひ込み置きたる二十五円は詰り其際の用心金なりしならんとの事なり。
 
 
(小樽日報 明治四十年十二月七日・第四十号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2005年12月7日公開