家庭より小学教師に望む事共
 
石川 啄木
 
 
 
 
▲家庭より小学教師に望む事共を近頃東京の或家庭雑誌で懸賞で募りました中に次の様な事がありました。之は何方(どなた)も御同感の事と思ひます。
△学科の教授法(をしへかた)の巧拙(よしあし)よりも子供に人格(ひと)としての大きい深い感化を与へて貰ひたいといふ事、教育学とか教授法(をしへかた)の難しい議論許り研究したとて別段益(やく)に立ちません。
△区長とか郡長とか視学などの前に出るとペコ/\頭を下げて、恰度主人と召使の関係(なか)の如く折よくば校長とか視学とかにして貰ひたいと云ふ様な吝(けち)な卑劣な考を持たずに、直接人材(ひと)を涵養(をしへ)て一世を風靡する偉大な小学教育家の天職に安んじて貰ひたい事。
△何(ど)の教師(せんせい)でも、成績が優等(よく)て温順(おとなし)くて服装(みなり)も容貌(かをかたち)も醜くない子を殊更可愛がる風があります。之は自然左様(さう)なる事で止むを得ぬかも知れないが、然し其反対な学科の劣等(できな)い性質(たち)の頑剛(ねぢけ)た貧乏人の子供の方が、一層教育する必要があるのだから、愛を以て感化する小学教師は一切平等否寧ろ性質(たち)の能くない貧乏人の子供社会でも冷遇する様な子供に却つて一層力を入れて貰ひたい。
△教師(せんせい)方は自身修養を怠つてならぬのは無論だが、其家庭特に妻君を教育して欲しい。広く見渡すと先生の奥様として真に尊敬する様な人は誠に少ない。大都会では左程でもないが村落(むら)などに行くと小学教師の感化は莫大なものである。然るに其妻君が良人の天職を扶助(たすけ)る資格を具へて居ないと却つて良人の仕事の邪魔になる事が出来て来ます。資格といふのは学力の程度を云ふでもなく、御飯の炊き方や洗濯の上手下手を云ふのではない。土地(ところ)の子女(こども)の模範(てほん)になり先生の奥様として耻かしくない様な人柄を云ふのです。
 
 
(小樽日報 明治四十年十二月六日・第三十九号)

 
 
(続)
 
▲子供が学校に昇(あが)る様になると急に大人ぶつて来ます。之は年上のお友達が出来るからでもありませうが、一つは先生が石川とか山田とかを呼ばずに苗字に呼ぶからであらうと思はれる。子供の大人ぶるのは教育上怎(どう)しても宜敷ない。殊に女の子は文子さんとか花子さんとか呼ぶ方が可愛らしくもあり懐かしくもあるから、何れの家庭でも常に呼んで居る様に、学校でも名前を呼んで貰ひたいものである。
▲参観に行くと、尋常一年などでさへ教師が「授業中は静粛にして居るのですよ」とか「必ず」「決して」「感心」などの言葉を平気に用ゐて居られる。子供等には解つてるのかも知れないが、随分六ケ敷い言葉である。斯様な事も子供が早く大人ぶる様になる原因の一つかと思ふ。
▲教師が生徒を呼捨にするのは構はぬが、言葉の標華を示す様に成るべく叮嚀な上品な言葉を用(つか)つて欲しい。子供の教育に注意して居る家庭では大抵、子供の言葉は学校に往きますと急に下品に乱暴になると云ふて居ます。
▲校長となると大抵は君子重からざれば威あらずと云ふ態度であるから、今日の小学校では生徒が直接校長の感化を享ける事は甚だ少ない。何とかしてモウ少し生徒に接近して貰ひたいものである。
 
 
(小樽日報 明治四十年十二月七日・第四十号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2005年12月7日公開