衆生済度の奥の手
 
石川 啄木
 
 
 
 ポン/\/\と云ふ木魚の響、之を狸の腹鼓(はらつゞみ)と聞けば興醒むる業なれど、看経(かんきん)の声に伴ふて森閑たる伽藍の壁に響けば寂滅為楽(じやくめつゐらく)の声尊としとも尊とし。円頂緇衣(しい)の人之を一口に坊主と云へば生臭けれど、抹香(まつかう)の香(にほひ)を燻(た)きくゆらしたる墨染(すみぞめ)の袖に救世の本願を忍ばれて、床しさは須弥壇(すみだん)の奥よりも深し。されど浮世の事すべて裏もあり底もあり、衆生済度の大眼目も奥の手を覗けば手品の種を見現はしたと同じ事にて、呆れて物が云へず。区内龍徳寺の住持戸田某(二五)が一向専念の念仏三昧(ざんまい)、壁の外から洩聞ば、南無阿弥陀仏お清さんお前が居なけれや夜も日も明けぬとは偖ても珍妙の限りなり。如何に末世と云ひ乍ら面妖(めんえう)な事もあればあるものと探つて見れば、茲に区内入船町畑八番地に福原病院の代診とか云ふ木戸孫一(三九)なる仁あり。内縁の妻清(きよ)(三一)とは十一年前釧路某医師の許に薬局生たりし時に出来合ひたる中なるが、其後孫一東京に遊学し漸々前期の免状を得、函館より当区に流れ込みたるものにて、孫一並ならぬ好人物なれば夫婦間シツポリと睦ましく之といふ波風の立つた事もなかりしに、頼み難きは秋の旅路の空模様ならで渋皮脱(む)けた女の心ぞかし。前記戸田和尚とは孫一の父官蔵が北見の国礼文(れぶん)に居りし頃世話をしたとか為れたとかにて其後も疎(うと)からず往復し居りしものなるが、南無やお清さん色即是空空即是色(しきそくぜくうくうそくぜしき)、悟るも悟らぬも畢竟(ひつきやう)同じ事なれば煩脳即菩提(ぼんなうそくぼだい)と変則な信仰を起し、説法要らずに帰依(きえ)して了つたので、和尚仏道の重宝は茲ぞと喜び人知れず済度の奥の手を施し居り。昨年八月孫一の妹タケ(一七)の死んだ時の如きは頼みもせぬに通夜と称して三十五日の済む迄毎晩詰めかけ、孫一の継母ユキを邪魔にしては何彼と難癖をつけて、主人(あるじ)の帰宅遅きを幸ひに飛んだ芝居を演じ居りしが、現に去る九月二十一日の晩の如きは現状をユキに取り押へられ、山口某といふが間(なか)に這入(はい)つて怎(どう)やら纏(まとま)りをつけたる程なりし。処が孫一今度樺太(からふと)へ渡航する事と成りしのでお清をも一緒に連れて行かむとしたるに、有髪(うはつ)の尼様(あまさま)何時かな肯(がへん)ぜず、怎しても樺太の様な寒い所は厭、妾(わたし)ヤ小樽に残りますと頑張り居るとか。行く行かぬは命をも捧げた救世の御師と別れる別れぬの問題なり。魂胆(こんたん)は云はずともの事、戸田和尚が奥の手が既に清が全身に廻つたと見ゆ。
 
 
(小樽日報 明治四十年十一月二十六日・第三十号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2005年11月26日公開