慶応四年閏四月四日起
穂足内(オタルナイ)騒動顛末記
 
橋本尭尚 口述
 
 
 
 
 時は慶応四年(一八六八年)閏四月四日、未だ明治と改元しない時のことであります。(註 この年九月明治と改元故に年代表には慶応四年がない)
 世は明治維新王政復古となり徳川慶喜は将軍職を辞したが、奥羽二十五藩は連盟して佐幕を唱え征討軍と一戦を試みんとしており、奥羽の天地は騒然と風雲定まらず人心恟々たる時でありました。
 しかし函館には、四月十二日函館裁判所が設けられ清水谷公考を総督として任じ、北海道は新政府のもとに、着々新しい政治が施行されようとしておりましたが、奥地の小樽内はまだ幕府時代(後幕府直轄時代)の儘で新政府へ引渡しも済まず、幕府の役人が支配していたのであります。
 当時の小樽内の状況は、安政二年まで松前藩が積丹の神威岬以北の奥地に和人の居住と婦人の入ることを許さなかつたため、昔の儘の寒煙にとざされた一漁村に過ぎませんでしたが、安政三年幕府領となり、この禁を解くやここに内地人が多く入り込み、僅か十三年間に、町や村の形が整い信香町を中心として、金曇町、芝居町、新地町、勝納町、若竹町、土場町、有幌町、また高嶋郡には色内村、手宮村があり、繁華な場所は金曇町、信香町で金曇町には小料理店、遊女屋、宿屋、居酒屋等が軒を並べ、その他浜辺に漁場の家屋が相当あつて、その戸数四百四十四戸、人口二千二百三十人を数え、住民は漁業を営み鰊漁を以つて生活し、他はこれに附従しての営業でありました。
 しかし当時の生活状態は、内地の騒乱の影響を蒙り、物価は高騰し特に米価は上り加えてこの年は鰊漁が不漁のため、幕府より借用米の代金を上納せねばならず、しかもこの年から普通二八税の外に新に四半敷税という薪にする伐木代一敷(高六尺巾五尺積)につき二百文の税を徴収されることになつたため、非常に難渋して、この四半敷税について住民は小樽内役所を極度に恨んで居りました。
 しかし前年までは鰊の大漁が続き、港には多くの船舶が出人りして景気が良く金曇町には多くの遊女や芸者が居り、遊女屋の南部屋、丸辰、山仙楼、山下楼を始めとして、七、八軒の楼は毎夜、弦歌涌く如く、鰊場の親方は一宵千金を抛つて茶屋づかいで遊ぶという好景気が続いてその頃の端唄に
   春は鰊の花が咲く、蔵に黄金と積替る
     凪こそなけりや、幾日も
    身上りするのにや、いとやせん
というような好景気であつたので、博徒や遊人が相当入り込んで来たのも又、当然であります。
 当時の行政を扱つていた役所は、未だ新政府に引継ぎも了えず幕府の役人が信香町(現在の開運町一丁目)に表門を海に向け一丁四方の構えで建てたものであります。役人は定役三名、同心三名、見習一名、御雇足軽二名その下に大工、小使、番人、目明し各一名宛で石狩役所が管轄して居りました。
 又町方には名主、年寄り、百姓代(註 漁場に百姓とは不似合であるが当時平民を百姓といつた)の町役人が居り、今の町村長のような事務を執つていたのであります。
 扨て当時、漁場の景気よさを、種にして日夜一六勝負で漁場の若者達から金を捲き上げていた博徒は、甲州屋有賀仁右ヱ門、二足草鞋の目明し星川龍蔵が長脇差の元締で、その他小樽内だけでも三十余人を数えて居たのであります。
 こうした中にあつて役人(定役)の伊沢平九郎は博徒に対して、厳重な取締りを続けたため博徒達はろくに博打も出来ないと勤番所役人に非常な反感をもつており、しかも早晩新政府になつたら取締りが一層厳しくなるだろうし、今の内に何んとか方策を樹てねばならないとよりより協議をしておりましたが、そのうち一人の博徒の話しから、役所に御用金の千五百両入箱が穴倉に十個程入れてあるとの噂を知り、茲に庇金事権平(41才)(印相模国厚木生れで左の眼の脇に三寸程の切り傷あり疵金とて有名であつた)等はこの御用金を奪い、奥地に逃走しようといい出しました。
 註「ある一説に役所の給仕を詐き、御用金を盗み出させ博打に費消し、その金額が相当額になり、新政府に引継ぎの際発覧することを恐れ、これを防ぐため役所へ押入り一騒動を起して、有金を奪う計画であつたともいう」
 そこで博徒の権平、萬作、小太郎、吉五郎が主となつて御用金奪取の手筈を定めるため密に新地町の奥、勝納川添の森林に二十名が会合して連判状を作つて血判し、篠路から江戸の浪人下国来蔵、荒谷兵三郎の両人を招いて、役所を襲撃する手段方法などを相談しました。両人は流石に浪人だけあつて役所を襲う理由として、新政府の看板を掲げ幕府よりの借用米代金の帳消し、四半敷税の免除、二八税の軽減を歎願すると称し漁民を狩り集め、役所に押し寄せその騒ぎの間に乱入して、御用金を奪い取ることが良策であると教え、皆この意見に一致し銭函より押寄る事に決定しました。
 こうして博徒、浪人等は三々伍々、銭函の地蔵堂(今の駅のそばにある龍眼寺の前身)に集まつたのであります。
 集まつた浪人及び博徒の氏名は
  江戸浪人 下国 来蔵(篠路に居り時々小樽に来た)
  同    荒谷 兵三郎(同)
  疵金事  権 平  相模国厚木生
  同    萬 作  江戸赤坂生
  無宿   小太郎  秋田院内生
  同    吉五郎  久五郎厄介
  同    金 作
  同    鉄三郎
  同    久五郎
  同    芳五郎
  同    豊次郎
  同    作 蔵
  同    菊 松
  同    米 吉
  同    弥 七
  出稼   国 蔵
  無宿   政 吉
  同    伊三郎
  同    専 蔵
  信香永住 勝三郎
  無宿   忠 吉
  同    常 助
  同    品次郎
 他二名の二十五名でした。
 扨て、小樽への進撃の進退懸引は浪人下国が指揮することになり、そのほか夫々部将を定め一同決死の水杯をくみ交して日の暮れるのを待ち構えて、準備に取りかかり各自うしろ鉢巻にたすきをかけ、刀を腰に差し総勢二十五名が勢ぞろいをなし、浪人下国を先頭に、荒谷兵三郎がしんがりとなつて堂々と出陣いたしました。
 時は四日の夜、眉の如き月は直ぐ西の海に没し真の闇となり星がまばらに出でて磯うつ波は岩にふれ音高くこの出陣に威勢を添えているようでした。
 途中まず第一番に初めの計画どおり、銭函の各漁家について申すには「我々は漁師達のために、取立税金の免除、借用米代金上納帳消等を小樽役所へ歎願に行くのだから、子供、老人を除く外皆提灯に獲物をもつて我等と同道せよ若し役所が彼是申さば叩き殺す覚悟である。若しお前達が応じなければ、家も小屋もぶち壊す」と強迫したため、漁師達もやむなく悉く随行して参りました。こうして張碓、朝里、熊碓と段々と人数は増し若竹町に入る頃は総勢凡そ六、七百人となつておりました。
 一方小樽内役所では、四日の正午頃、岡引の龍蔵が町内博徒の挙動を探つておりましたが、この日に限つて博徒、浪人は朝から一人も見当らず不審に思つて、その旨を役所次席伊沢平九郎(上役宇津木頼母は箱館出張不在)へ報告いたしました。
 この平九郎は至つて小心者で、博徒、浪人達が何か企てたのであろうと、狼狽一方ならず、只右往左往立ち騒ぐのみでしたが、その次の役人平田弥十郎は取り敢えず、名主、年寄等を呼出して評議し町内の警戒を厳にするよう、年寄船木忠三郎(後に忠郎と改名)、同年寄中野三蔵、伜新太郎、名主山田兵蔵(後に山田吉兵ヱ)手代佐助(後の渡辺兵四郎)註「兵の名は兵蔵の兵で四人目の子で兵四郎と改名した」岡引龍蔵等に町内の様子を探らせました。
 この見回りは午後一時頃から夕刻に亘つて信香、山ノ上量徳、奥沢辺を探ぐり、町内が何んとなく騒然として今にも騒動がもち上るとの噂が流れ、人心恟々として、家々は宵の中から戸締し、往来に人影もなく、町内は火の消えたようであると次々に報告いたしました。弥十郎等は事態のいよいよ迫まつた事を知り、非番の役人小者に至るまで総動員の出勤をさせて、役所の表、裏門を厳重に閉じて用心しておりました。
 さすが、いつもは不夜城である金曇町の雁の字屋(遊女屋)は申すまでもなく、附近の料理屋、居酒屋も今宵に限つて三味の音もなく端唄の声さえ聞かれず、寂として只だ後を流れる勝納川の水音のみいたづらに高く聴えるばかりでしかも、四日の月は宵のうちに稲穂山に没して、闇夜に星が輝き物すごき晩となりました。
 午後十時を過ぎる頃、勝納川尻辺に見張りに出ていた若者三人が、役所に駈けつけ、只今熊碓辺に多くの提灯が列をなして小樽を指して来る様子であると注進するに及び、役所側はいよいよ表裏の門を堅く閉ざして高張提灯を門内より表に突出し、同心木村源十郎、菰田直次郎、高橋真平に、同心見習小嶋忠之助(16才)は夫々防備の準備をして腰に大小を差し油断なく役所の内外を見廻り、一方岡引龍蔵及び乾分七名、善助其の他十余名は、命令を受けて御用提灯をさげ勝納橋にはしごを横たえて、寄せ来る博徒浪人その他の一揆を喰い止めようとしましたが、多勢に無勢一たまりもなく蹴ちらされ、六、七百人の暴徒はときの声をあげて役所に迫まつてまいりました。
 丁度この時刻に医士佐藤玄悦(小樽医の開祖で安政四年幕府より小樽に派遣された人、後に小樽病院長となり明治十三年病死年七十四)が汐見台の患家より入舟町の自宅に帰らんと若党に小田原提灯をさげさせて、信香町の浜谷嘉七漁舎の前に差しかかつて、暴徒のうづにまきこまれてしまい、博徒等は先生の大小を奪い取り、胴あげして道傍になげ飛ばし、この勢いに乗じて、群衆の真先になつた浪人下国来蔵、疵金の権平は信香の町会所に至り、「これより役所に出向くから名主は案内せよ」と名主兵蔵を引立てて役所へと喚声をあげて押寄せ、外の連中も名主兵蔵の店を打ち壊して仕舞ました。
 いよいよ役所の表門に迫つた下国来蔵は、大音声に「歎願の筋あり、門を開けよ」と奴鳴りました。すると門内から定役平田弥十郎の声で「この夜中に多勢で押し寄せ一揆徒党をなすは御法度に反くもの、願いの筋あらば相当の手続をもつて、町役人の手を経てせよ」と述べ立てましたが下国来蔵は「名主兵蔵を同道せり、尚開門の上直接御願いを受けられたし、開門せざれば門を打ち破つても押し入るべし」と押問答を繰り返しているうち名主兵蔵の姿は見えなくなり、又、押し寄せた群衆は喚声をあげて、門より突き出した高張提灯を打ち破り、表門を破壊して仕舞いました。
 破壊された表門から、浪人下国並びに疵金権平が真先に門内に乱入して来ましたが、役所側は何れもすでに戦の用意をして、うしろ鉢巻、たすき懸け、袴のももだちを取り抜刀して今や切つて出ようとしておりました。
 平田弥十郎は、鉄砲で真先に乱入する疵金をねらつて一発、見事足部に的中して疵金はその場にどつと倒れましたが、続いて来た乾分等が直ちにこれを担つて、信香の浜谷嘉七宅に運んで行きました。叉、下国浪人は門内に入るや同心見習小嶋忠之助が門脇からくり出した手鎗で胴腹を貫らぬかれて其の場に倒れたのを見て浪人荒谷兵三郎がその首をかき落しこれ携え何れかに逐転して行方知れずとなりました。
 小嶋忠之助は下国来蔵を倒すと、なおも進んで鎗をもつて戦つていましたが、何分雲霞の如く押し寄せる群衆に、到底かなわないと役所内に引返したが、一人の味方役人も見えず止むなく裏門より遁れ出てたのであります。
 博徒等は役所内に侵入すると室内を隈なく、手当り次第に捜索し、押し入れから鉄砲四丁、刀一振、脇差二腰、小倉袴一着等を奪い、次第に奥に入り戸棚(床の間)に入れてあつた金箱の中から百五十両の金子を奪つて即時これを分配し、更に穴倉を見付けて金箱を捜したが遂に発見できずその中に夜はそろそろ明けようとして参りましたので、途中から連れて来られた漁師達は皆、後のおとがめを恐れて各々の村に急ぎ逃げ帰つて行きました。
 博徒達は夜明けを待つて信香の浜谷嘉七(漁家)及び名主三蔵、藤野弥惣兵ヱ漁舎に引上げ浜谷宅を本陣として、疵金権平を始め四人の負傷者の治療にとりかかり、権平は腰が立たないので、二階の物置きに隠しました。
 この時の博徒の数は二十余名であります。
 扨て一揆が町内打入の時、権平妻とみ(36才)、萬作妻とよ(42才)の二人は身に白の衣服を着し提灯を、振りかざして、大声で「町内の皆さん、加勢に出て下さい、私共の目的が達すると税金は軽くなり、御上よりの借用米代金は帳消しとなり、お米の値段も下ります」と触れ歩き、叉翌日浜谷宅に引揚げた時も各町内を駈け回り「皆さんのために命がけで働いた人達のため御馳走せよ」と酒肴を運ばせました。町々の人々は後難を恐れて続々と酒肴を沢山浜谷外二軒の家に運んで博徒達を大いに歓待したのであります。
 翌六日早朝から本陣である浜谷宅に集合した博徒達は、今後の方針を協議しましたが、奪つた金は僅か百五十両、これだけではどうする事も出来ないし、早晩石狩役所から役人が取押えに来るに相違ない、今のうちに金と船を町内より借受けて一時も早く奥地に逃れるに如かずと相談し、当時の財産家福長多三郎、大三山田兵蔵、浜谷嘉七を本陣に呼び寄せ三人に金千両と船二艘を貸与えよと強請したのであります。
 強講された三人は、既に飛脚が石狩役所に急報したことを知つていたので、明日には石狩より役人が来るに相違ない、それまで延ばしておこうと、博徒等に沢山の酒肴を饗して、金は今手許にないので高嶋、祝津から借受けて差し上げようと詐きました。詐むれたとは露しらぬ博徒達は悦んで酒を呑んでおりました。
 一方、五日未明、暴徒の襲撃に堪え兼ねて役所を退いた役人一同は、入舟町の某漁家に引揚げ、石狩役所に急使を派遣しようとしましたが、後難と途中の危難を恐れて誰れ一人これに応ずるものが居りません。漸く入舟町に住んでいたアイヌ(若者)「ニシカ」事仁助、「ヲマンキノ」事萬吉、「ラミタ」事宗五郎の三人を石狩に、「シンナイ」事栄吉、「マンコキ」事幾八、「アイレコ」事阿四郎、「イレンカ」事伊助の四人を高嶋、忍路に急使として御用状を持参させたのであります。五日の深刻石狩に到着した「ニシカ」等の持参した御用状を見て石狩役所は、大いに驚き一刻も早く小樽へ出張し鎮圧しなければならないと、直ちに篠路、発寒等に居住していた幕臣の剣士を応援に頼みそれぞれ準備を整え、六日正午石狩を出発して陸路銭函へと向いました。
 その一行は調役、樋野恵助、定役、中村兼太郎、同心小田亥之助、同岡田金次郎等外十五名、「アイヌ」を案内として夕刻銭函に到着して同所の漁業白浜国松(当時の村役人)方に至り、小樽内の動静を探り、陸路は途中に山坂あり、不意の要撃も計りしれず、危険であるとして船で行くことに決しましたが、船では遅延すると、白浜国松外二名に案内させて朝里村(今の駅前付近)に達し、これより三艘の漁船(三太郎漁場)を仕立てて夜陰を幸い入舟町川口有幌海岸に上陸した時は夜明けでありました。
 直ちに小樽内役人の集合している入舟町に会合し種々協議した結果、博徒の本陣に捕縛に向うことは取り逃す恐れがある。それより要所で空砲を放ち、彼等が驚き戸外に飛出すところを取り押え、手向うものは斬り捨てようと総勢二十六人、信香町へと向いました。そうして信香と金曇町の角で空砲をドンドンと三発打ち放しますと博徒等は、よもやこうも早く加勢の役人が来るとは思つてもいなかつたので、酒に夜を明かしていたところを、この銃声に驚かされ、周章狼狽、我れ先にと表に飛び出して参りました。役人達はこれを見て乾分共の逃亡には目もくれず、頭分の逮捕に全力を注いだのであります。
 権平、金作、萬作などの親分達は浜谷宅にあつて、役人の来るのを聞き、負傷している親分権平を二階の物置にかくし、それぞれ身仕度を手早く整え浜谷の家を飛び出しました。
 一番先に家を飛びだした金作は、石狩同心岡田金次郎に見付られ追い詰められて勝納橋際で遂に進退きわまり川に飛び込もうとしたところを岡田の投鎗に背中を刺されて斃死し又、鉄三郎も石狩役人中村兼次郎に追われて抜刀して立ち向つたが、一刀のもとに切り捨てられて仕舞いました。
 疵金の権平も二階の物置にかくれていたが、役人が二階に登つて来るのを見て、裏口の屋上から下り便所にかくれ誤つて便槽に落ちた処を取り押えられ、銭函から救援隊として駈けつけた。白浜国松、長七郎、平八の三人に勝納川で全身を洗われて「モツコ」に乗せられて役所に運ばれました。
 逃亡した吉五郎は岩内に潜伏中をその月の十六日に、又萬作は勝納川の奥(今の真栄町付近)の乞食小屋に潜伏中を九月の朝召捕われました。
 その他の芳五郎、政吉、藤兵ヱ、忠吉、又吉、菊松、勝三郎、国蔵等は逃亡して行方不明となりました。
 こうして、町内には一人の博徒の影も見えなくなつたのであります。
 扨て逮捕された疵金権平は負傷しているため「モッコ」に入れられ、その月の十一日に箱館役所に押送されることとなり、附添足軽一人、縄取り二人、道筋は其の他の役人が、次の役所まで差添えられました。その道筋は余市、岩内、雷電山を越へて磯谷、歌棄を経て黒松内に出て長万部、森、峠下を過ぎ箱館の獄屋(今の西別院付近)へその月二十日に到着しました。この道中に要した日数は十日間であります。
 萬作も又四月十六日、権平と同じ方法で送られ二十四日に箱館に着くや直ちに牢屋に入れられ、更に吉五郎、小太郎は四月二十二日箱館押送、五月五日箱館に到着して獄屋につながれました。
 それから四人は五月以来、箱館において日々訊問を受け小樽内役所へ乱入し金品を奪い取りたる罪により次のとおり言渡しを受けたのであります。
 言渡書は四人ともほぼ同じで

 
◎ 浪人荒谷兵三郎、同下国来蔵等と申合せ及徒党穂足内御用所表門を打ち破り乱入致し候段不恐公辺始末不届至極に付箱館其他引廻の上獄門に行ふもの也
 いよいよ八月二十九日が斬首の日ときまり、同月は早朝から湯に入れられ、身体を清め髪を結い直して、獄屋の構内より馬四頭に菰を一枚づつうちかけ、第一番に権平を、引続いて萬作、小太郎、吉五郎の順に馬に乗せられ、馬添えの番人左右より二人で縄をとり、罪人を動かぬようにして、裏門から出ると、役人附添い、先払番人が幟りに罪名を記したるものを持ち、次の番人に鎗二本、さす又、ねぢり棒などを持せて、本通りを引回しました。市中には罪人を見ようと見物人が黒山のように集り、その中を海岸町を経て亀田村に入り万年橋を渡り四、五町過ぎると首斬場に到着しました。(註 この首斬場は今の五稜郭停車場手前を三、四町海岸に出たところであつた)
 時に午前十時、馬より四人を下し、昼食を与え役人から「遺言あらば申せよ」と沙汰があつて第一番に権平を刑場(しおき場)に引き入れ入口にて目隠し(註 目隠しは紙五枚位を二つに折り目に当て白晒し木綿で縛りたり)をして草履を脱がせござの上に座わらせます。検視の役人は同心三、四名が床几に腰をかけております。番人は縄を切り下げ、三人の番人が左右、後に各一人づつ、左右のものは罪人の手を後に延ばさせ、後の一人が着衣を肩の下まで引き下げ首を延ばさしめると、首斬役は罪人の横脇より出て刀を抜き一打ちに首を落すと、胴体は前の血溜に切口を向けて置きます。刀には番人が手桶の水を「ヒシヤク」でかけ半紙で刀を拭いさやに納めて、そうして首斬役が左手で首を髪の上から掴んで立てひざして、検視役(同心)に見せるのであります。
 こうして次々に斬首された四人の首は直ぐ箱に四人別々に入れて、塩漬けとし箱には各名前、年月日を記入され、胴は付近の無縁堂の裏に埋めて、無縁堂の僧侶により読経、戒名を付け位牌が仏壇に置かれます。
 ◎四人の戒名
  疵 金 権 平 業消信士之霊 俗名 権 平 四一才 明治元年八月二十九日
      萬 作 除妄信士之霊 俗名 万 作 五一才 同
      小太郎 消除信士之霊 俗名 小太郎 二九才 同
      吉五郎 得恵信士之霊 俗名 吉五郎 三六才 同
 四人の首は塩漬けされたまま、犯罪地の小樽内に送られ獄門(梟首サラシクビ))と定まり、役人附添い番人がこれを担って、九月十日小樽内役所に到着しました。
◎当時の公文写




 
木下官一郎(箱館役所)より宇津木頼母(小樽内役所)へ
○斬首前の公文通知
役人詰合中及徒党候者共の内小太郎外三人御仕置済の上首級四個来月朔日頃当地差立候筈に候間兼て御用忌も可有之候尤罪状等の書類は其節可差立候捨札案写一冊差送申候右之段可得御意如此御座候


 
八月二十一日
追而 獄門台、並捨札、番小屋并晒は御承知も可有之候へ其三日の積都而御用意被置候様存候以上


 
○首と共に通達文
獄門台、並に捨札、番小屋、晒し方は三日二夜御規則之通り但忌日は除く事(註 忌日とは天皇の御誕辰、崩去、神武天皇祭等今までの大祭などの事である)
 九月十一日より三日間、勝納川尻(勝納橋付近)の両岸(河原)に二個宛を晒すことになりました。
 その晒し方は首台は六尺の高さの台に五寸釘で首を差し貫き顔を往来(街路)に向けて、罪状を記した捨札(註捨札は御用済次第捨てるため捨札という)を建てるのであります。




 
○捨札文(文意は同じ)
       穂足内永住人 権 平 辰四十一才
右之者儀穂足内御用所に乱入可致儀は不申合とも多人数呼寄及徒党御用所へ立入候不恐公道始末不届に付箱館其他引廻しの上死罪に行ふもの也
 辰 八 月
 首台より三尺にして柵を構え、其の内に入ることを許さず、傍には番小屋を建てて番人を付け、川の向うに権平、万作の首を晒し、小樽内(手前即ち信香方)側の川尻に吉五郎、小太郎の首を晒したのであります。
 これを見た当時の人の話では、首に一ばい虫がわいて、権平の両眼は開きおそろしかつたということです。
 晒し了えた三日目の夕刻に権平の首は、妻のとみに、万作のは妻とよに、それぞれ下げ渡され、吉五郎、小太郎は親族なきため、権平、万作の妻がこれを引取り、龍徳寺(元信香町にあり)の僧侶に読経を頼んで埋葬いたしました。
 こうしてこの騒動も落着して、住民の記憶から次第に忘れ去られて行つたのであります。
◎追記








 
 此の騒動で住民が営業を休み難渋したと鎮定後、直ちに時の政府から四斗入白米五十俵が下賜されました。
 又騒動鎮定に尽力した人々に褒美(今の賞与金)が下されたのであります。
○賞与金の辞令
 金拾両也 申渡  何 某
其方共儀此度穂足内村騒立一件に付役々出張いたし候節昼夜とも相働殊に悪党共召捕候身命を不惜相働候段奇特之事に候依之為御手当被下候也
  辰閨四月
 明治元年辰閏四月 石狩改役所
 
 
 

◎この記録は祖父、尭尚が大正十四年小樽市史編纂員となり、当時岩内町居住の木村正義氏が(同氏の父は事件当時小樽内役所の役人木村源六氏で旧名を木村源次郎とて同心を勤めていた)当時の記録(顧末書)を保存されており、祖父はこの記録を借用し、これを基に古老を尋ね、又実地に場所を踏査して一つの記録として整理し、昭和八年八月十三日、小樽市立図書館でその概要を講演したものであります。(橋本亮一・記)
 
 

 
 

  底本:「北海道の文化」創刊号より抜粋
   所蔵:市立小樽図書館
 

  入力:新谷保人
   2005年11月15日公開