夜鷹そば
 
石川 啄木
 
 
 
 
▲文読む窓の夜半の燈火茲々として何処ともなき三味の音に更けまさる星夜の静けさ、火桶の埋火かき起して煙草一服二服する時遙かに陰に籠つて聞ゆる按摩の笛と夜鷹蕎麦の呼声ばかり思深きはなし▲素見(ひやかし)帰りの遊人、夜業を終へたる職工など、道端の薄暗りに屋台下させて熱かいのを一杯二杯掻き込む趣味は知らぬ人知らじ。外套の頭巾目深かに被れる漫歩きの人或は黒綾コートの人などは殊更に風流なり。茲に此夜鷹蕎麦売子の生活如何にといふに▲一杯の価三銭なるは誰しも知る所なるが、彼等売子の大抵は親方の家に寝食して日暮より夜の一時二時頃まで売歩き先づ平均一晩に五十位は売れる由なるが、時としては百五十位に達する事もあり▲平均五十で三五十五毎晩一円五十銭とは大した様なれど、彼等は其売上高の二割だけを親方より貰ふ由にて、大抵は賄付にて月に八九円の所得あり。怠けぬ奴は十二円位になる月もあるが▲親方の家に寝食せざる通勤の売子なれば其配当は三割にて、娘に小商売でもさせて居る者は優に月三十円位の収入あり△一杯三銭なれど実費は一銭五厘掛り居る。売子の食費一杯から三厘の割なれば親方の方では一杯から七厘づつ儲かる割合なり▲一番売れるのは毎晩十時頃の由なるが△此売子になる老は多くは内地より来て未だ思はしき職に有付かぬ者が当座凌ぎにやるのにて、目下小樽区中に売子総計六十人あり。十二月頃になれば例年百人位になる由。彼等に親と呼ばるる者乃ち普通の蕎麦屋にて夜鷹そばの売子を養ひ居る家は区内に十二軒ありと云ば一軒に五人宛の売子ある訳となるなり。
 
 
(小樽日報 明治四十年十一月十日・第十八号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2005年11月10日公開