冷火録 (三)
 
石川 啄木
 
 
 
 
超人と凡人 フリードリヒ・ニイチエが称へ出してから、「ユーベルメンシユ」乃ち超人といふ語は魔語の如く欧洲の青年を酔はしめ、樗牛竹風が一度其説を紹介して以来、日本でも此語が幾度論壇に繰返されたか知れぬ。欧羅巴(ヨーロツパ)では堕落した基督(キリスト)教が、暗黒時代からの因襲的勢力を以て人心を束縛する事深かつた丈(だ)け其丈け、此反逆的超人思想の伝播(でんぱん)が殆んど意外な勢ひを示した。欧大陸の有名な作者で之に共通な点を有する作を公にした者も少なくなく、本元の独逸(ドイツ)で大評判のハウプトマンやズウデルマンは云ふ迄もなく、伊太利(イタリー)のダヌンチオが小説、獅子の様なイプセン翁の劇、及び其後継者と謳はるる西班牙(スペイン)のエチエガライは無論、露のゴルキイ等も其思想の根抵に於てニイチエと相契合する所あるは何人と雖ども否む能はざる所である。特にイプセンの如きは其作「ボルクマン」の第三幕に超人の語を明様(あからきま)に用ゐてさへ居る。大陸と比較的思潮の関係の薄い英国でさへ、パンチ社から出た「ポケツトイプセン」を先駆として、イプセン物を通じて此猛烈な思想を余程深く味はつた。実際十九世紀から今世紀へかけて、欧洲の心(うら)若い青年を最も深く動かした思潮は此超人思想と、其反対(うら)を行つた社会主義的の思想の二つである。日本は万事向岸(むかふ)の真似をする国である。幾何(いかに)一等国だと威張つても、矢張現在では未だ総ての点に於て欧羅巴の文明に附随して行つてる。但(ただ)相違してるのは、向岸で百年かかる事を、此力(こつち)は十年位でサツサと済して行くと云ふ丈けの事だ。欧洲で魔語の如く伝はつた社会主義も既に日本に輸入されて居る。超人思想も樗牛晩年の勇ましき叫びによつて日本青年の脳裡に移し植ゑられた。然し凡て思想上の事、特に此峻鋭なる超人の思想は、まだよく日本人に味はれて居ない。少なくとも学者とか先覚者とか云ふ人には甚だしく誤解されて居る。学者の多数は此思想を本能満足主義と称へて、箇人々々の本能満足は社会を破壊する、社会の破壊は一切の文明をして動物的状態に帰らしむるのだと云つて、世の青年を戒めて居る。成程時代青年の前途に甚だ親切な様な口吻(こうふん)だが、然し考へて見よ、己(すで)に人間に何等かの本能ありとすれば……己に其を本能と呼ぶからには、其本能を抜去つたなら人間にして真の人間でない事になりはすまいか。否、それは今茲(ここ)で論ぜぬとして、進化の大法から考へても、人間が猴類(こうるゐ)から進化した如く、現在の人間即ち凡人の境遇から、更に夫(それ)以上の境遇即ち超人の境遇に進まうとする慾求は決して理のない事と云へぬではなからうか。雪嶺(せつれい)博士は最近の「日本及日本人」で超人を論じ、「人類が猴類の上に一階級を占むる如く、超人が人類の上に一階級を占めむこと極めて難し」と説いて居るが、事の難易は別として、人間が超人の境地に憧憬するのは、生存の活力を失つた人間でない限り、殆んど必至の、又本然の要求と云はねばならぬ。又、歴史の上から思想進化の跡に照して見ても、宗教から国家を解放し、王権から人民を解放し、教会から学術と文芸を解放し、成文の信条から真の信仰を解放し、更に立入つては古い社会律から女子を、両親の希望から其子を解放して来た近代的思潮の大勢は理の当然として正に個人を一切から解放せねば止まぬのである。籠の鳥を放してやれば必ず先づ空に飛ぶ。解放の必然に迫られた人間が、高く超人の境地に飛揚せむとするに何の異もないのである。超人といふ語は畢竟(ひつきやう)近代人の理想を最も簡潔に現はしたもの、頭の禿げかゝつた学者達の考へるよりモツト深い大きい確かなる根抵を持つた思想なのだ。何時の世に於ても社会に多数の凡人と少数の天才との戦闘(たたかひ)が絶えぬ。此天才者が詮(つま)る所皆超人の境に憧るゝ勇ましい人生の戦士である。斯(か)くの如き天才は、戦つて闘つて、時として勝ち、時として敗れる、敗れた天才は、蓋(けだ)し冷たい墓の中で次の如く呟いて居るであらう。曰く、「世に適者生存の語あり。我等恐らくは今の世に適せじ、されば我等遂に敗れぬ。然れども思へかし、真に永遠に死し果つべき者、果して我なるべきか、果た彼なるべきか。」
 
 
(小樽日報 明治四十年十月三十一日・第九号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2005年10月31日公開