小樽の昔噺 [2]
 
橋本 尭尚
 
 
 
([1]より続く)
 
 
 明治九年六月十日でありました。
 黒田開拓使長官が玄武丸と云ふ半軍艦に乗込み此沖を航海の折赤岩山に白龍が今でも棲み居るとて大砲を放ち祝津の村人を過つて殺したことがあります。
 此より史実に就ての御話しを致します。
 銭函と朝里駅の間に張碓停車場があります。こゝは小樽郡朝里村字張碓村と申します。此の「トンネル」の上が名高い神居古潭(神居古潭は神の居ます村落の事)として昔より「アイヌ」人が神霊の地として御幣(イナホ)を立てゝ無事を祈つて居ります。
 此所は海岸に突出した懸崖二十丈程あつて屏風を立てたが如くで、岩上には老樹一面に生ひ茂り一幅の画を見るが如くであります。又頂上には大さ五尺乃至八尺位の割岩が簇々と立つてをります。古来より此崖が崩れ落ちる時は後に必らず事変が起ると云ひ伝へ松浦武四郎の西蝦夷日誌及其他の文献にも記してあります。
 此断崖が崩れ落ちた年号を調べますと寛文八年、天明八年、文化三年五月、文政四年四月、弘化三年三月の五回であります。第一回の寛文八年今より二百六十三年前で此断崖が突然崩れ落ちました。此「コタン」に住むアイヌ人は勿論小樽内まで何にか異変なきやと互に恐怖して居りました。其翌年一度春風春水一時に来るの好時節になりました。東蝦夷地「シベチヤリ」の報道では酋長沙具佐允が松前氏の圧迫に堪へず、此儘に経過せば我同族は滅亡するに至るべし。座して其境遇を待つよりは人道上許すべからざるが故に松前氏を蝦夷嶋より追ひ払はんとの企あり。此義軍の旗上げには我民族は悉く参加すべし、其折には海岸の岬々には峰火(のろし)を上けて報ずべしと便りがありました。「アイヌ」人は毒矢を作つて今や遅しと待つて居りました。或日の夕方に積丹神威岬に当りまして火煙を認めました。引続いて美国、古平、余市、高嶋の岬々に火の手が上りました。素早や一大事と茲なる神居古潭にも枯草や樹木を積上げ火をかけて石狩、厚田、浜益、増毛の同族に知らせました。此時海岸は到る処火煙は焔々として天を焦し其光景は目覚ましいものがありました。此小樽及附近の同族は老弱を除き我も我もと「ブシャ」矢を携へ東蝦夷地と馳せ登りましたが既に「シベヤリ」の酋長沙具佐允は長萬部川を境として松前軍と対陣中であつたが松前軍応援として幕府及津軽藩より数千人の軍隊が来り衆募敵せず遂にアイヌ軍は敗北となりました。
 第二回の天明八年今より百四十三年前の崖落ちには其翌年の寛政元年には千嶋の一島国後に於て常時漁揚の請負人飛騨屋久左工門の部下の者共が「アイヌ」人に対する圧迫到らざるなく物資を掠め、夷婦に暴行を加へ遂には酒に毒を混じて気慨ある「アイヌ人」「キンキチ」に呑ましめて殺し、それが為め有名な国後目梨の蝦夷乱が起り是又「アイヌ軍」の敗戦となりました。これ天は是か非かと嘆息せざるを得ませんです。これが蝦夷乱の終りであります。
 第三回が文化三年五月今より百二十五年前の崖崩れには露国の軍艦が小樽、高嶋の沖合に顕れて測量をし間もなく樺太や宗谷海峡に出没し、樺太久春古丹を侵し住家を焼き富五郎等四名を捕へ去つた騒動が起りました。翌四年には露船二隻択捉の内保を焼討し紗那を攻めました。此時幕吏戸田亦太夫が自殺致しました。又五月に露船が礼文利尻嶋に出没しまして船舶を襲ひ物を奪ひ船を焼く等の乱暴を致しました。六月津軽、南部二藩に増兵を促し秋田、庄内二藩に出兵を命じました。是より嚢に露船が蝦夷沿岸に出没せしことは松前藩にては、これを認めて居つたが幕府へは報告しないで隠して居た。其訳は我藩は微弱で到抵防禦することが出来ぬので国換へされると思ふて隠していたと云ふ。
 此年察しの通り松前氏は奥州梁川に移封されました。
 此年幕府は北辺容易ならずとして、彼の有名な近藤重蔵を蝦夷視察として派遣されました。此年の秋高嶋及小樽内に参りました。西蝦夷地第一の良港にして石狩の大原野を控へ鰊漁に富み将来樞要の地として西蝦夷取締として露国に対する鎮守府を置くの候補地なりと幕府に建議いたしました。此時重蔵は戯れて狂歌一首を作りました。「酒もあり肴に鮭のありながら、たつた一つの小樽内とは」此狂歌によつても当時の不便な事が想像出来ます。今小樽が繁栄となつたのは近藤重蔵の尽力に原因するもので小樽の人々は此恩人を忘れることが出来ません。
 此建議に依つて露国の侵入を防ぐため同年幕府は砲術家で右名な井上貫流等十名を高嶋に派遣致しまして防備しましたが、其後露国船が一向顕れません。其筈一千八百五十四年「クリミヤ」戦争が起りまして露国は土耳其に軍隊を向けねばなりませんで、東方侵略を中止しました次第で、我国にとつては誠に幸でありました。若し「クリミヤ」戦雫が始まらなかつたら此の北海道は如何になつてあつたか思ひ半ばに過ぎるものがあります。
 第四回目の文政四年今より百十四年前四月の崖落ちは此年の十二月松前氏が蝦夷嶋に復領した故に「アイヌ」族は凶事の前兆としました。常識を以て考へれば却て喜ぶべき筈であるが、能く調べますと其は茲に一例を挙げますと松前氏の時代は漁揚は彼の商人なるものに請負しめ領主は更に干渉しません。故に請負人部下の支配人等は内地より率ひ来る帳場とか番人等は強欲一点張りより外のない輩で、人情道徳など夢にも知らぬ無頼の徒ばかりで漁場に使役する「アイヌ人」を惨酷にしたのは昔「アメリカ」合衆国南北戦争の以前同国の南部諸州が奴隷を使役したる以上の残忍を極めました事は此講座に於て各先生が嚢に述べられましたから私は略します。只だ一例を揚げて御参考に御話します。
 安政二年幕吏向山軍太夫が西蝦夷地巡視として美国に来りました時に、此所の酋長の「エコマ」は軍太夫に対して歎願致しました。其事情は漁場の支配人等が我々同族を使役する昼夜を分たず飢たるもの食はさず、労するものも息まさず、疾病に薬を与へず夫れが為め人ロ漸次減少し今より二十年前は七十余人居りしが今は僅か十三人となり、内男子多く四十歳にして未だ妻なきものあり、妻あるものは夫を他の漁場に使役し、其不在の間之を妾とし妊娠せば堕胎せしめ、或は物品を掠奪して顧みず此状態では十年を出でずして我が同族は滅亡せん。依て救済を乞ふた次第斯事実であるから「アイヌ族」が松前氏の復命を凶事とした訳です。
 第五同目の崖落ちが弘化三年三月今より八十五年前で、露国の軍艦が屡々宗谷海峡に顕れました。警戒が厳重のため何事も起りませんでした。不思議にも数年来此崖落ちが事変の前兆となつて居ります。
 
 
 
 
 終りに臨みまして、小樽の繁華の原因となつた昔話を致します。今も尚ほ北海道の民謡の追分節の文句に「忍路高嶋をよびもないが、せめて歌棄磯谷まで」其他神威巖に対するうらみを含めた哀調の文句で、幾多の有情の人々が膓を断つた。積丹半嶋の神威岬に直立した神威巌であります。何故に松前藩が此より奥地へ和人の居住と婦人の通行を禁じましたかを調べますと、松前藩が寛文九年の国縫の大戦に恐怖しまして、若し神威岬より和人の居住や婦人の通行を許さば、「シベチヤリ」の乱の如く和人が加はり其二の舞があつてはならぬと思料しまして、「アイヌ」人の崇敬して紳威と称して居る伝説を利用いたしまして、元禄四年三月今より二百四十一年前に此処より奥地へ和人の居住と婦人の通行を禁じました。故に奥地は少しも開けません。特に小樽は西蝦夷地第一の良港がありながら只昔の儘でした。然るに安政二年今より七十五年前徳川幕府の直領となりまして箱館には最も新しき頭脳をもつた即ち欧米の文物に接触された奉行及以下の役人を在勤せしめられました。第一に積丹半嶋より奥地に和人の居佳と婦人の通行を許し、奥地を開拓せしめんとするには神威岬の禁令を解き今までの迷信を解くに如かずと翌三年三月箱館奉行堀織部正は部下の支配役梨本彌五郎は豪膽にして文学に秀で號を晴雪と称せしものを撰んで宗谷勤番を命じまして、特に妻子を伴はしめて神威巌の迷信を打破せんとしました。梨本は喜んで之を請け此月の下旬妻子を引連れ箱館港を船出しまして幾夜の波枕を重ね四月の初め夕方彼の積丹なる神威岬にと差しかゝりました。折柄北風強く船は自由になりませんでした。船頭等は畏怖いたしまして懇ろに梨木に婦人通行の禍あるを述べて船を引き返さんことを請ひました。彌五郎は船頭等を叱咤し艦先に立ち刀を抜き神威巌頭を睨んで曰く、
 『我は是れ征夷大将軍徳川第十三代源家定の家臣なり、今君命を奉じて此地を過ぐ岬岩何にかあらん、必らずや汝は魔神ならん、婦人の通行を妨げて奥地を開くことを得るや』と高声を発しまして従者に弾丸を岩に向ふて放たしめました。流石の魔神も其勢に恐れて船は自由に動き出しまして奥地へと矢を射る如く進みました。其夜は更けて高嶋岬なる手宮、今の小樽に船を停め翌日風を待つて出帆、数日の後宗谷へ着しました。梨本彌五郎は直ぐ箱館奉行堀織部正に此旨を復命致しました。奉行は直ちに紳威岬より以北に和人と婦人の通行の禁を解きました。元禄四年より百九十五年間昔の儘の奥地も段々開けました次第です。これより先天保八年の全国の大飢饉であつて大阪で大塩平八郎が餓民を救はんと旗を上げた年です。奥羽も不作の為め窮民が蝦夷地に渡り露命を保たんと参ましたが神威岬より奥地に一歩も入ることが出来ませんで古宇以南の岩内、歌棄、磯谷、寿都辺に留りました者が安政三年の解禁で続々妻子を携へて奥地に入込みまして小樽は申すに及ばず古平、美国、余市、忍路、高嶋及石狩より奥地が漸次繁華となり今まで松前藩が禁止した寺院も建立となり町や村の形が出来ました。偏に神威岬の解禁が大に原因となつて居ります。
 
 

 

 底本:不明 (調査中)
 所蔵:市立小樽図書館       

 

  入力:新谷保人
  2005年11月5日公開