小樽の昔噺 [1]
 
橋本 尭尚
 
 
 小樽の昔噺を御話し致す前に此土地が其の昔如何なる状態であつたかを述べまして、夫より伝説と史実とに区別して物語りを致します。小樽は今や人口十四萬四千八百余、戸数二萬七干九百余の大都会となりまして、長崎、神戸、函館に次ぐの大港となり、船舶の出入多く港内は常に帆柱は林の如く、陸には自動車、自転車の往来頻繁織るが如く物質的の文明は内地の都市を凌駕して居ります。今より七十六年前の安政二年までは松前藩の所領で、彼は鎖国的主義を執りまして積丹半島の神威岬より奥地には和人の居佳と婦人の通行を禁じましたので此良港をして空しく寒雲に鎖された一漁村として放置しましたが、安政二年徳川幕府が直轄することになりまして、此禁令を解きましたが夫より漸次繁華の地となりました。それより以前は、アイヌ人のみの部落でした。此アイヌ人が何時頃より来住しましたか、考古学上調べて見ますと余り古いことでは有りません。今より約一千二百余年前、齊明天皇の御世阿倍比羅夫等が越の渡島へと遠征しました其時頃より軟弱なアイヌ人は降服し、気概あるものは渡島半島に落ち付きまして約六、七百年間そこに住んで平和な天地に生活して居りましたが、今より四百八十八年前嘉吉三年に下國安東太郎盛季が南部氏に攻められて渡島の茂辺地に渡つて来りました。此下國氏は能く、アイヌ族が自分と同様の境遇で此島に渡来したことに頗る同情を寄せまして大に撫育致しました。故に能く服従して双方とも親密に暮しました。夫より以後十一年を過ぎて享徳三年に南部の浪人武田信廣等が下國政季を奉じて落ちてきました。彼信廣は館主となり爾来代々の松前氏はアイヌ族を敵視して少しも撫育しませんで、却て虐待するのみであつた。故に彼の温和なる性質をもつたアイヌ族も自己の同族防衛上屡々反乱が起りましたが、松前氏は武力を以ては到底叶わぬ故人道上許すべからざる種々の好策を以て彼を欺き、残忍なる行動を執つて酋長等を惨殺しました。彼等の圧迫に堪へず段々と奥地/\へと退き遂に無人の地たる小樽にも住む様になつた次第です。
 
 
 
 
 これより小樽の昔話に取りかゝります。年代は判然としませんが未だ一人の和人(シャモ)も住んでをりません頃ですから今より約二百六十年程前のことです。小樽がまだ「クッタルシ」「アイヌ語訳虎杖草」と称しました。今の入舟町は川下で小高い浜辺は渺々たる海原茲に穴を掘り丸木を柱として住んで居た親子二人の「アイヌ」人が居りました。父親の名は「ケフラケ」七十歳以上の老人其風采は堂々たるものです。その筈彼は元東蝦夷地沙流(サル)に住み同地の酋長と尊敬されて居ましたが、かの有名な蝦夷の大乱とも云ふべき国縫の大戦に参加し松前軍を悩ましましたが松前軍のため内地より援兵が多く来り、又彼等が好策に陥り敗軍となり止むなく再挙を計らんと此「クツタルシ」に落ち付き風雲の来る時節を待つて居りました。併し寄る年波に身体不自由でありました。此処に一人の息子名は「ニシカ」と呼び至つて親に孝養を盡し父にもをとらぬ勇敢な若者がありました。如何なる日でも山に猟し海に漁りよい獲物を取つて父に与へて居りました。段々と夏も過ぎ秋も更けて十月の末となり山々の樹木は茶褐色に変り折々霰交りの雨が降り天狗山、稲穂山には白い帽子を戴く頃となりました。一人息子の「ニシカ」は相も変らず沖に丸木舟を操つて漁に出かけまして、何時も日暮方に帰るのを例として居りました。茲に不思議なのは「ニシカ」が帰る頃いつもの通り何処から来るものか判然しませんが一人の十八九歳の女の子、名を「ペチカ」と申しまして舟を待ち受け手伝ひをしたり、舟を陸へ引上げなどして獲物を背負ひ共に楽しげに家路に帰りますことがが続いて、何つともなく遂に「ニシカ」の家に止まり夫婦として暮すことになりました。其年も冬となつて妻「ペチカ」は段々と美しい姿となりまして、肌の色は白蝋の様に白く冷い感じのする程滑になりました。眼の光はどことなく力強い魅力を持つてゐて顔を見合した男は何にか強い圧迫を感する様でありました。
 此浜辺より西北の方沖合に大小の岩が二つあつて、此を立岩と申します。此立岩は今の南浜町の沖合一丁計りの海中に突立つて居りまして小樽の名勝として名高いものでしたが、昭和二年海面埋立の邪魔になつておしい事に破壌してしまひました。
 此岩の辺に毎夜怪しい光を放ちました。此を見た部落「コタン」のアイヌ人が多かつた。此の光は二つあつて、青く物凄く光るのであつた。アイヌ人の多くは夜光の珠だ、海の紳様だなどと、数々の疑問が起りました。
 或夜の十時頃でした 夫「ニシカ」は我家の窓より立岩の辺に青く光つた珠を認めました 一声高く怪しい玉だと叫びました。傍に端座して居た妻の「ペチカ」は夫に向ひ、兄さんあの夜光の青玉が欲しいわと夫の膝にすがつて言ひました。夫の「ニシカ」はお前はあれを玉だと思ふか、妻の「ペチカ」は皆は神様だと言ふけれど私は珠としか思へません、夫「ニシカ」はばか/\しい事を云ふな命のない玉なら正体を見届けやう。まさか怪病に取りつかれる事もあるまいと云ひました。
 いよ/\冬となつた。外は一目千里の銀世界と変りかの立岩も大きな雪達磨の様になつた。其裾に打寄する巨涛は物凄く怪光の玉は光を増すばかりです。
 夫「ニシカ」は或夜の夢に妻の「ペチカ」が夜更けに家を出たまゝ帰らぬ故に妻の行衛を見届けんと浜辺に出て月影に沖をながめた。すると妻の「ペチカ」は彼の立岩の上に立つて髪振り乱し衣は北風に吹かれ、今にも体は大波に捲き込れんとしてゐる。怪光は強く青味を増した。「ニシカ」は苦しい夢からさめて傍に臥して居る妻「ペチカ」を見たが姿は見へなかつた。夫の「ニシカ」は狂気の如く表戸を外して出ましたが咫尺も弁ぜざる大吹雪でありましたが、積る雪を踏み分けて此処彼処と捜しましたが姿が見へませんから、詮方なく我家に帰りました。家には妻「ペチカ」の姿が見へた。夫「ニシカ」は妻に向ひお前はこの大吹雪の烈しい夜にどこへ行つてゐたんだと尋ねました。ところが妻は一寸海辺まで行きました、と答へました。茲に夫「ニシカ」は益々不思議が加はる計りで何時となく自分を呪つて居る様な感じがしまして、ゾツト総身に水をかけられた心地がしました。妻「ペチカ」に向ひ体にさわると悪い早く御休みと云つて妻を抱く様に臥床に導いた。妻の体は氷の様に冷たかつた。又も妻は夜光の玉が欲しいと同じことを幾度となく繰り返したが夫は玉でない魔物だと妻の言葉を打ち消しましたが夜になると妻は海辺へ行つた。そうすると妻の姿が忽然と波間に吸ひ込まれた。そんな夜が続きました。
 妻「ペチカ」の容貌は一層青味を帯びて来た肌が氷の様に冷たく立居振舞が甚しく曲線的になつた。それでゐて美しさは光りを発する程輝しくなりました。
 妻の「ペチカ」は妖美になつて行つたに対して夫「ニシカ」は人が変つた様に痩せ衰へ、逞しい両の腕は肉落ち骨現はれて船を漕ぐことと働くことにかけては部落の誰れにも一歩の負をとらなかつた昔の気力は、すつかり抜けてしまひました。
 夫「ニシカ」は口には言はぬが、かく不思議はあの怪光の呪ひに相違ない。妻を救ひ自分を全ふするためには、あの怪光の正体を見届けねばならぬ。我身は怪光と共に亡びやうとも妻を救ひ得たならば如何に幸幅だろうと頻りに月の神に祈りました。
 或日のこと妻の「ペチカ」は夫に向ひあの夜光の玉を怪しい物と思ふのはやめて下さい。あれは夜光の玉に違ひありません。決して/\怪い魔物なんかでありませんと申しました。夫「ニシカ」はこれに答へて申すにはお前は怪光に魅せられ苦しめられてゐる事を知らないのだ。見よあの大空に輝く月がまん円くなつた頃おまへの欲しがる夜光の玉を引捕へてやらうと強い力が目に現れました。茲に妻「ペチカ」は兄さん許して下さい。あの夜光の玉を引捕へる事はやめて下さい。あの光は私の命です。私を哀れと思召したら、そんな恐ろしいことをしないで下さいと云ひました。月が一夜毎に丸みを増して行く、それにつれて「ペチカ」の悶へ嘆きは加つた。冬も半ばとなつた小樽の海は藍色の水が暗黒に変つて行く頃となりました。妻の「ペチカ」は家を抜け出でゝ立岩に泳ぎついて云ふ様人間としての此世の最後人間の愛を受け人間を愛し性の劣りしものにして人間を仮りし身も今は仮りの姿をぬいで元の姿に帰らねばならぬ。と「ペチカ」は思ひ余つて岩上に体を投げて泣いた。今宵を最後の人間の姿、涙の目を上げて白い手、白い足を今更のやうに見入つた。けれども何んの情もない黒い大波は、どぶりと岩を打つて「ペチカ」の体を濡らしましたが忽ち足から海の中へ吸ひ込まれてしまつた。折しも月は吹雪の晴間より差込みました。波音騒がしく「ペチカ」の体は一面に白い鱗が光つてゐた。これを浜辺に見た「ニシカ」は決心の色を顔に顕し、丸木舟を立岩の怪光に漕ぎよせた。漸く間近く迫つた海が急に波が逆立つた怪光の下によぢ登つた。爛々と光る二つの玉それは見るも恐ろしい大蛇の眼であつた。「ニシカ」は兼て用意の小刀(マキリ)を振り上げて只一打と打ち下ろしました。大蛇の両の目は電光のやうに光つた毒気が「ニシカ」の体を包んだ瞬聞に「ニシカ」はゾーツト震へながら傍に「どくろ」を巻いた小さな白蛇を見た。白蛇の目には涙が光つてゐた。確に手答へのあつた一打の後「ニシカ」は意識を失つて姿が見へなくなつた。間もなく主なき丸木舟は波の間に/\漂よふて居ました。
 それきり怪光は「オタルナイ」から姿を消してしまひました。
 
 
 
 
 尚一つ伝説の御話しを致します。小樽の西北一里位祝津の海岸に赤岩山といつて其名の如く茶褐色の岩が重り合つてゐる岩窟があります此岩窟に白龍大権現が祭つてあります。此辺の人々は大に崇敬して居ります。此処に参詣するには銕の梯子や銕の鎖に倚つて辛うじて登る危険を冒さなければ到達することが出来ません。昔この洞窟に大蛇が棲んで居た長さ七、八丈胴の太さ二斗樽位あつた。部落の人々は怖れて此山に近寄るものがなかつた。此大蛇のために喰はれてしまふ者が多かつた。村人は其大蛇の怒りを恐れ、熊や鹿などを供へて祭りをして見たが何んの効もありません。或夜此大蛇が村人の夢枕に立つて十四五歳の無垢の処女を喰たいとやら云ふたので持て余して居つた。
 併し相変らず害をするので止むを得ませんで、互に相談の上籤を引いて当つた家の処女を八月になると祭をして大蛇の穴の所へ其娘を供へることにした。すると大蛇が出て来て呑んで了うと云ふ風で年々それが例となりまして、已に八人の処女を供へましたが九年目の夏も来り八月の祭りには九人目の処女を供へねばなりませんで、彼処此処と探すことになりましたが此附近にはありませんで困つて居りました。茲に余市のアイヌ人の酋長に「ウヘレチ」と云ふものがありました。男の子がなくて九人の女児がありました。その九人目の女の子名は「シトナイ」と云ひ年十五歳で頗る「ピリカ」即ち美人でした。その処女が赤岩山の人身供の事を聞きまして自分が其犠牲にならふと父母に申し出でました。
 父母は許さう筈もないのに娘「シトナイ」の言ふに我家には不幸で男兄がなく女の子ばかり九人あつても何んの役にも立ちません。無いも同然です。生きて居る甲斐もありません。聞けば祝津の「コタン」では赤岩山の祭りも近附いたが大蛇に供へる娘がないので困つてゐるとのことです。私が其人身供になつて其「コタン」の人々を救ひたいと思ひます。何卒許して下さいと云ふ、意外の覚悟を聞いた父母は祝津「コタン」の人々の為めになるものならば許してもよいと云ひ放ちました。
 かくて娘の「シトナイ」は其犠牲となることに極りました。娘の「シトナイ」は思ふ仔細ありと見へ父に乞ふて切味良き「マキリ」と父が猟につれ行く犬を借り受けました。
 いよ/\八月十五日赤岩山の祭りとなりました。娘「シトナイ」は愛犬を引連れ懐には「マキリ」を隠し余市の「コタン」なる我家を立出でました。送る人々に別れを惜しまれて祝津の赤岩山へと指して行きました。丁度夕景に.其麓に到著しました。まだ十五夜の月は出ませんのを幸と暗に乗じて数十丈の岩壁を犬と共に何んの苦もなくよぢ登り、彼の大蛇の棲むと云ふ洞窟へ参りまして携ふ処の熊と鹿の肉を洞窟の入口に供へました。自分は岩蔭に身を忍ばせ様子を窺ふて居りました。十五夜の満月はそろ/\と登り初めたので山も海も手にとる様に見渡すことが出来ます。彼の「シトナイ」今や遅しと大蛇の出るを待つて居りますと、間もなく天地も崩れん計りの響きをなして大蛇は大頭を振りあげ二つの眼は太陽の如く光を放ち、穴の口に出で来て供へてある肉を嗅ぎ大口を開き、舌鼓をうつて熊の肉を一口に喰ひ尽し、第二の鹿の肉に喰ひかゝりました。岩蔭に隠れ居たる娘「シトナイ」は様子を見すまして犬を放ちました。犬は忽ち一声高くあげまして大蛇に飛び付きしばしの間は争ふて居りましたが遂に犬は大蛇の咽喉に噛付きましたが、間もなく大蛇は数カ所の痛手に堪へ難くさすがの大蛇もとう/\倒れてしまひ醜き亡き体(がら)を曝しました。
 娘「シトナイ」は隠し持つたる「マキリ」を抜き放ち大蛇の洞窟へと入り、前に喰はれた八人の娘の髑髏を取り出しまして一纏となし此を背負ひゆう/\と山を下りまして余市をさして夜明に帰りました。以来大蛇の害を免れましたが村人は後の祟りを恐れまして此洞穴に白龍大権現として祀り今も尚ほ崇敬して居ます。村人が夜長の昔噺しとして居ります。
今まで述べましたのは伝説として御聞取りを願ひます。
 
([2]に続く)
 
 

 

 底本:不明 (調査中)
 所蔵:市立小樽図書館       

 

  入力:新谷保人
  2005年11月5日公開