謡曲談
(斯道の達人某氏の談)
 
石川 啄木
 
 
 
 
▲名称  謡曲といふ名称は近頃流行になつたもので、昔は能と云ひ猿楽、田楽、散楽、又は能楽など称へて居たものです。
▲起原  ですか、猿楽と申す楽の初めは神楽から出たと云ふのです。夫も中古東山時代の頃は神楽、大和お舞、東遊、など云ふ種々なる高尚で優雅な音楽があり、朝廷の御神事に用ゐられ延て国々の神社にまで行はれたものです。
▲能役者の始  は其当時諸国に散在して神社に仕へ祭典の時は歌舞を奏すといふのを役目とした者が、マア能役者の起原でせう。此役者の内で円満井(ゑまゐ)、結崎(ゆひざき)、外山、坂戸、の四座が奈良の春日神社に奉仕して居たのですが、其中で円満井の家が最も古い様に思はれます。
▲流儀及び家元  結崎の子孫が観世音の御夢想に感じたと云ふので後に観世と改めましたのですが、其後継続して将軍に仕へ、徳川の初めは能役者中の首席を占めて居りました。之が今の観世清廉の家です。夫から前に御話した円満井は今の金春(こんぱる)八郎に、外山は今の宝生(ほうしやう)九郎に、坂戸は今の金剛鈴之助に分れた。それから金剛の子孫に鼻金剛(びこんがう)と云ふ名人と喜多七太夫といふ上手が出て、将軍秀忠の時に一家を立てて喜多流と申したが今の喜多六平太まで継続して来たのです。此家柄を能楽の家元としてあり能の五流と申します。私は其観世流に属するのですが、流儀の異なるに従つて抑揚など皆違ふのです。他流の事はよく知りませんが、何流でも稽古の難しさに異同はないので、古い狂歌にも
  舞(まひ)二年太鼓三年笛五年つつみ七年謡曲(うたひ)十年
などありますが、兎に角年を積まねば能く謡ふといふ事は出来ません。
▲二百番  能は概して二百番と云ひますが、之は無数の作の中から殊の外上出来のものを選り抜いたのを申すので、多くの人の校訂を経て今日まで行はれて来たのです。けれども悉く面白いものでもありません。又同じ謡(うたひ)でも流儀によつて謡方が違ふ許りでなく、観世や宝生で「善知鳥(うとう)」と云ふても他の三流では「烏頭(うとう)」と云ひ、観世で「安達ケ原」と云ふのを他流では「黒塚」と云ふたりして、曲名から斯様に違ひます。
▲姿勢  謡は其謳(うた)ひ様一つで人を感動させる事もあり又然らざる時もあります。商売人の様に体は勿論目鼻口手を動かしなどすれば表情を助けますが、第一謡を謳ふには身の構へが正しくなければならぬのです。身体が乱れて居ては巧者な人でも聞かれない。然らば其姿勢は如何してよいかと云ふに、却々(なか/\)一言でお答する事は出来ぬが、極簡単に云ふて見れば、先づ足の大栂(ゆび)を合せ臀を其上にシツカリと載せ、皺を広げ下腹をゆるく張り、臍と鼻との居座は直線を為すと云ふ心持で気を丹田にをさめ、此ところにて息を張り腹に力入れず口を開いて謳ふので、其声は腹より出して口先では謳はぬやうにして口なめづりや句切れに息を吸ふやうでは不可(いけ)ませぬ。
▲強吟(つよぎん)弱吟(よはぎん)  又謡の声にも強吟弱吟の二種類があります。強吟といふのは吟声に緩みなく強く雄々しく、従つて抑揚の節も甚だ著るしからぬ様に謳ふ所を云ひ、弱吟と云ふのは吟声軟かで優美で上り下りの節面白く花やかに歌ふ所を云ふのです。前者は主に神聖森厳なるもの、祝意を表するもの、或は武勇を現はすものに用ひられ、後者は優美華麗なるもの、悲哀なるもの、又は情緒纏綿たるものなどに主として用ゐらるゝのです。だから曲によつては一番残らず強吟なるもの、或は弱吟なるもの、又両声半々で行くもの、或は一句のみ他吟を交へて変化せしむるものなど種々様々あります。
▲飽き易きもの  謡曲を始めて習ふ時は面白きもの、又容易きものと思つて誰でも直ぐ天狗になりますが、中途で必ず飽きの来るもので、私なども以前に二度も止め掛(かけ)た事がありましたが、之を推徹さねば駄目です。御話すれば果しがありませんから此位にして置きませう。
 
 
(小樽日報 明治四十年十月二十九日・第七号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2005年10月29日公開