綱島梁川氏を弔ふ
 
石川 啄木
 
 
(一)
 
 仰げば秋晴一碧(ぺき)の天、蒼遠たり、廓寥(かくれう)たり、呼べど答へず、叫べども応ぜず、熒如(けいじよ)として宛然(さながら)一大円鏡の如く、然(しか)も何の写す所がない。俯せば黙々として四大に横はるの地、之を敲けば唯戞々(かつかつ)の音ありて地心に響くを聞くのみだ。山死し、林眠り、百歩にしてよく一葉の落つるを聞くべく、流れの水は沈んで、淵を臨めば底なる魚の鱗も数へらるゝ。樹々風に騒いで其幹石の如く堅く、草色光褪(つやあ)せて葉末に重き露の冷たさ。大気は沈静にして清冽(せいれつ)、胸を披けば涼爽(りやうさう)の気が立所に骨に沁む。何処を見ても、一点浮華の影なく、一塵の立ちて舞ふものがない。げに秋の声一度立てば、見る物聞く物皆寂然(ひつそり)として、些(さ)の浮気なく、些(さ)の偽りなく、しめやかに気が引き緊つて、事物おのづから厳粛にして真面目、恰(あたか)も禅定(ぜんぢやう)の境に入つた様である。こゝに春の夢心地ゆるなく、夏の倦怠(けだる)さなく、総てが気の弛(ゆる)みの微塵もなき赤裸々の状である。人此間に立ちて如何に声を大にして呼ぶとも、其声遂に空焉(むなし)、然も照々たる晴光万物に光被して、云ひ難き一味和楽の温かさが乾坤(けんこん)に充ち満ちて居る。秋は覚醒の時である、円熟の時である、諸有(あらゆる)色彩の力が弱つて、動かざる物と物との間に、流れてやまざる生命の、永劫(えいごふ)の活動を静観すべき時である、人が四辺の眩惑から振返つて、一人深く己が心の声を聞くべき時である。秋の明哲と森厳(しんげん)と和楽とは生命の奥秘に悟入した哲人の心である。予札幌に入りて僅かに数日、秋意既に深くして吹く風の冷たさに身も心も緊り、胸の曇りが吹き払はれて、何かは知らず深い問題の数々に心が向いて行く。此時に当り、突如として秋の如き悟入の人梁川綱島栄一郎氏の訃(ふ)に接した。
「綱島栄一郎儀養生上相叶昨夜十二時遂に永眠致候間此段御通知申上候《といふ十五日付の黒枠の葉書は極めて明白である。何の奇もない。死は由来最も赤裸々な事実である。然し此赤裸々ほど永劫に解き難き秘密が復(また)と此世にあらうか。世は今秋である。飾りもない偽りもない赤裸々の秋である、此秋の赤裸々のうちに躍る生命の面目も亦永劫に解き難き秘密ではなからうか。予の心は今、大いなる白刃の斧を以て頭(かしら)を撃たれた様な気持がする。況(いは)んや予は故人の友の中の哀れなる一人である。梁川氏は実に予の為めに師であつた。恩友であつた。予の短かき過去の中には、故人の深き同情の外には何物も心を動すことの出来なかつた時代さへあつたのだ。
 やるせなき悲みが潮の如く胸に湧いて、今我が心は声もなく泣くのである。君の死を聞いて悼まぬ人は無からう。一度君の吊を知り君の文を読んだ人は、今皆一様に君のために哭(こく)してあるだらう。然し予は何故(なにゆゑ)か、君のために真の心を以て泣くのは、広い世に予一人のみである様な気がする。斯くいふのは或は僭越(せんゑつ)であるかも知れぬ。僭越であるか無いか、それは知らぬが予は唯然(しか)く感ずるのである。予の此心を解する人は恐らく有るまい。然し故人が在天の霊のみは、必ず予の此心を諒として呉れる事と信ずる。故人は其生前、癒えざる病の床に居乍ら、筆を取つて一代の求道者を導いた人である。其沈練にして遠神の情趣裕(ゆたか)なる文は、説き難く示し難き言外の理を説いて常によく読む人の心に新らしい力を与へたものであつた。然し予は決して其説によつて故人に帰依した者では無い。予が故人の説に朊し難き事は其理由と共に嘗て故人に書き送つた所である。文章は人格の発露である。然し文章其物が故人の全人格ではなかつた。此人格あり、初めて故人は其文によつて一代の人を動かしたのである、霊界の偉人であつたのである。予が其説に全くは帰依しかね乍ら、然も猶故人の前に跼(ひざまづ)くを辞せざるのは、実に斯くいふ予自身が、深くも故人の人格の光に温ためられ、其湖の如き同情を、宛然(さながら)法恵の雨露の如く身に浴びたからである。我が悲みを以て人よりも一層真なものであるとする予の心が、少なくとも故人にのみは諒とせらるゝに違ひないと信ずるのは、予自身に於て決して僭越でない、放言でない。然し今は故人の説を是非し評騰(ひやうとう)する時ではない。且つよしや是非し評騰(ひやうとう)して妥当な結論を得るとしても、それは予と故人との温かき心の交りに何の影響もない増減もない事である。予は唯、予の心の中にありて永劫に死せざる故人に対して我が思を述ぶれば足りるのである。
 
 
(北門新報 明治四十年九月二十四日)

 
 
 
 
(二)
 
 懐へば二歳余の昔である。三十八年の五月中旬(さつきなかば)、塵の都の煩(わづら)はしき生活に倦み果てて、漫(そぞ)ろに行春の故山の空、暁の林に鳴く閑古鳥の声の偲ばるゝ頃、新たに梓に上せた「あこがれ《の一巻を懐にして、予は梁川氏を訪れたのであつた。故郷の禅房に薬餌を友として、白蘋の花を浮べた水鉢の前に氏の文を愛読した頃から、何日(いつ)か一度は親しく清咳(せいがい)に接したいものとは思うて居たが、とりわけて京に入りての後幾日、林外前田君を訪ねて氏の手紙――予が前田君の雑誌に寄せた詩を批評された――を見せられて以来、一層其心を深くして居たものゝ牛込市ケ谷の奥といへば東京の山中、身世(しんせい)の匆忙(さうばう)に追はれて寧日なき身には、この時迄遂に氏の門を叩く機会がなかつたのである。空晴れて温かく、らうがはしき電車の響きも遠き大久保余丁町は静かなもの。玄関に立ちておとなへば、氏の令弟なる建部氏が慇懃(いんぎん)に取次に出られた。病室にてもお構ひなくばと請ぜられて裏庭へ廻る。広からぬ庭の青葉を皐月(さつき)の日光が照りかへして、そことなき初夏の匂ひの心地よさに、先づ胸の中すが/\しく、籬(まがき)に咲き残る山吹の花を数へて、廻縁に上れば、障子の中に打沈んだ咳(しはぶき)の声が聞えた。室は六畳の塵一つなき清らかさ。主人(あるじ)の君は白布に掩うた寝具の上に半ば起き上つて、積み重ねた蒲団に凭(もた)れて居らるゝのであつた。あはれ十年病臥の人、肉落ち骨痩せて、透き入る許り蒼白き頬には幽かに紅の色がさして居る。これが恁(かゝ)る病を身に持つ人の習ひであるとか聞く。組み合せた繊細(かぼそ)き指に目を落して打出でらるゝ言葉は枯れて居る。深い湖の底に沈んだ古への鐘の音の如く枯れてゐる。上図(ふと)面を上げ給へば、我が心の奥まで照すかと見ゆる双の目の輝きよ。神の恵みを思ふより外に余念もなき谷間の花の瞳とも云はれよう。千万無量の慈悲の光を?(たゝ)えた霊魂の鏡とも云はれよう。世を忘れ身を忘れて、目前(まのあたり)此崇(けだか)き人に接した予の心地は譬へ様もなかつた。予は実際、如何に此世の煩はしさに心惑ひて泣く時でも一度此時の事を思へば、云ひ知らず敬虔(けいけん)の情に打たれて、そことしもなき安心の嬉しみを味はふのである。話題は主に詩と宗教の事であつた。「基督(キリスト)の詩《を説いた人、詩よりして神に之き神よりして詩にゆくと真信の醍醐味を道破せられた人にとつては、詩と宗教とは遂に二つの物ではなかつた。学者博士といはれ、一代の先覚者といはるゝ人にさへよく一篇真の声をなした詩だに味ふことの出来ぬ輩の多い世に、詣(いた)り深き此人の言葉の節々は、如何に年若き予の心を動かしたであらう。日影暖かき障子を明け放せば、青葉の風が畳の上を辷(すべ)る。話頭(わとう)は進んで、或は深き寂寥の中に我と我が心に親しむ世外の歓びを語り合ひ、又予の詩に関して嬉しき助言の数々を垂れられた。氏自身の事に就いて最後に云はれた語は次の如くであつた、曰く、我明らかに大いなる神の心を感じたり。神を感じたるものは自己の尊とき使命を自覚せざるを得ず。我如何にして我が使命を現すべきか。我今病あり、立つ能(あた)はず、行ふ能はず、乃ち唯一管の筆を以て此の使命を世に伝ふべきのみ。これ我が唯一の神に負へる務也(つとめなり)。神の恩寵は深く大いにして限りなし、我が心はいと安らかなり、と。
「掲梁川先生之病室、禁喫煙与長座。主治医香村生《と題した丈一尺許(ばか)りの杉板が、柱に掲げられてゐた。予は程なくして、此敬虔なる霊界の征朊者が、十年一日の如く血を吐く病に臥して、神の恩寵に勇む道場、残んの山吹籬(まがぎ)に散るゝ静けき病室を辞したのである。そして生返つた様な新らしい楽(たのし)みを胸に蔵して、其後二日目か三日目の霧冷かりし暁、瓢然と帰去来(ききよらい)を賦(ふ)して都門を去り、大江戸の夏に背(そむ)いて岩手の山の麓の人となつた。あはれ彼の日の短かき逢瀬、それこそ実に予と故人梁川氏との交はりに於て、最初の、而(しか)して又最後の逢瀬ではあつたのだ。
 帰り来て、居を杜陵城下にトして間もなく、一夜氏の夢を見て何となく心安からず、直ちに書を裁して安否を問ふと、「小生が大兄の夢に入りし日、恰(あたか)も喀血の事あり、本日漸く筆をとる程に成り申候、一種の霊的感応に候ふべし《云々といふ返事が来た。霊的感応の語、之を梁川氏の語として初めて予は深く感ずる所があつた。此後一年許りの間、予も亦(また)健康衰へ、剰(あまつ)さへ一身内外の事甚しく予の心を痛ましめて、予は殆んど朝夕を分たず、魂を苦き涙の中に浸しゝ、人知れぬ煩悶に骨も肉も刻まるゝ思を嘗めたが思余る時々は必ず筆を噛んで心の数々を梁川氏に訴へたものである。氏も亦常に喜んで予の為に貴重な時間も惜まず、溢るゝ許りな同情を傾けて、返事を恵まるゝのであつた。さき予が曩(さき)に故人の同情の外には何物も心を動かし能はざる時代さへあつたというたのは、乃ち此当時の事である。其中に予の「あこがれ《を詳細に批評した手紙も貰つた。これは同年九月盛岡から出した雑誌小天地にも掲げてある。
 昨年の初め、予は弱り果てた身心の健康を養はむとして、生立の紀念(かたみ)多き渋民の林中に、人知れず隠れてから、互ひに消息もト断(だ)へて居たが、今年の年賀の文には、「小生の病状もよろしき方に候間御安心被下度(くだされたく)《といふ喜ばしい便があつた。五月津軽の海を越えて函館の人となつて以来、暇ある毎に起居を伝へて居たが、当時の予の詩を評して「一誦して哀調人に迫る《云々と書かれた葉書こそ、今となつては、予が貰つた故人の最後の水茎の跡となつてしまつたのである。札幌に入りて僅かに数日、まだ一葉の葉書さへ出さぬうちに、何とした事ぞ、我がなつかしき君が長(とこし)なへの眠りに入りし通知に接せむとは。葉書に縁どつた黒の枠、君は其中に我は其外に、幽明境を異にして、あはれ我が此心、秋風に托して抑奈辺(そもいづこ)の天(そら)に告げようぞ。窓の外、草は乱れて、思も長く風も長く、世は恰(あたか)も秋、我が眼はあへなくも曇るのである。
 
 
(北門新報 明治四十年九月二十六日)

 
 
 
 
(三)
 
 噫(ああ)、我が梁川氏は遂に此世を去られた。今の世に於て、多少宗教とか、文学とか、哲学とかに心を入れた者で、我が梁川氏の吊を知らぬ人はあるまい。既に其吊を知つて、未だ其文を読まぬ人はあるまい。既に一度といへども其文を読んで、未だ我が梁川氏を慕はぬ人はなからう。実に故人の深沈なる確信と明徹なる思索と引緊つて温味のある文とは、如何に?(けが)れた人の心にも、必ず一味彷彿(はうふつ)たる安心の涼風を吹き込まねばやまぬ力を有つて居た。世は過渡の時、人は彼方に行き此方に彷(さまよ)ひ、迷は迷を生んで、一代の風潮其帰趣を知らざる時、一切の眩惑を洗ひ落した赤裸々の心魂を以て、霊魂(たましひ)の在家(ありか)を探れよと叫んだのが、乃ち我が梁川氏である。我等如何に世の所謂学者博士の浅墓な論議に敬意を払はうとしても、遂に故人が少なくとも来るべき時代の精神的堕落に向ふ人心を呼び返へして、疲れたる足を休むべき樹蔭を教へ、渇したる喉をうるほす一掬(いつきく)の清水を与へた恩人、秋風の如き深沈の声を以て人の心の塵を吹き払つた哲人、敬虔なる人生の戦士、一代の先覚者であつた事は認めざるを得ぬ。己を空しうして人を充たし、よし一切を失はしむるとも、己が信じて世の第一の宝とする物を凡ての人に得させむとした故人の心は、少なくとも故人と世を同じうした我等の、永く記して忘るべからざる所である。
 予は故人の深く大いなる人格の前には、宛然(さながら)廓蓼(かくれう)たる秋天を仰ぐ様な心地を以て跼(ひざま)づいた者である。故人の温かぎ同情には、荒野の花の夏の雨を喜ぶ如く、喜んで身も濡し心も濡して浴した者である。予は故人に対し、師と呼ぶ、兄と呼ぶ、親しき友と呼ぶ、我が諸有(あらゆる)友の中の最も大いなる一人と呼ぶ。そして又、故人の文を読むに当つても、最もよく同情し、最もよく解した一人である事を信ずる。よく解し、よく同情して居ながら、然も何故に其説に朊し、其理に帰依(きえ)しなかつたか? 一切を放擲(はうてき)して此秋の如き悟入の人の前に平伏したかつたか?
 これは大問題である。人生に於ける最後の大問題である。要するに、人生は両面である。この両面は、永劫より永劫に亘る人生の真面目である。人生を平坦な一面体と思ふのは、地球を平面であるといふ様なものである。人生の両面は何に基くか。曰く、「生命《の二つの慾望に基く。二つの慾望とは何であるか。曰く、自己発展の意志と自他融合の意志である。予に言はせると、何人に限らず人は必ず其性格に両面を具へて居る。所謂神も亦両面の性格を具へて居る。(こは梁川君も認められたる者の如し、病間録二一五頁「愛《冒頭参照)引包(ひつくる)めて言へば、宇宙の根本性格が両面を具へて居るのだ。(此両面観に出立する予の哲学は、予が少なくとも現在に於て、以て最高の思想とする所のものである。)梁川君は人生の一面よりして神に之(ゆ)き、予は他の一面に立つて居る。予は故人の説を解し且つ同情して、然も其説に朊する事の出来なかつたのは此為である。其説に朊せざるに上拘(かかはらず)、其人格に朊したのは何の為であるか。之も亦明白な問題である。人生の両面は永劫に亘る両面であるけれども、之を一体に包有するものは綜合的個性である。換言すれば偉大なる人格である。二が一になるとは可笑(をかし)い様だが、其二が本来人生といふ一体の二つの面に過ぎぬのだから論理上決して怪むに足らぬ。此故に、相異れる両面に出立する人生最底の二大思潮、――仮に基督(キリスト)教的及反基督教的と吊(なづ)く――は、其究竟(きうきやう)に於て相一致する、否、畢竟(ひつきやう)同一なものである。唯此境に達するものは、推理の力ではない、綜合的個性乃ち天才のみである。予が、梁川君の説に朊せずして其人格に朊し、基督教と一致する能はずして、然(しか)も耶蘇基督を以て最大人とするのは此為である。矛盾でもない、撞着でもない。
 故人と予との間は、其持する見解に相異あるに上拘(かかはらず)、遂に其為に何の障りもなかつた。故人は何処迄も予の大いなる友である、予は何処迄も故人の哀れなる友である。予の大いなる友は、今既に此世を去つた。取残された哀れなる友は、今己が心に刻まれて永劫に死せざる友に向つて此言をなしたのである。友の永眠は九月十四日の夜十二時であつたとやら。十四日は予が初めて此秋風の郷なる札幌に入つた日である。予が北の都の第一夜の夢を結んだ時、友は永久(とは)にさめざる夢路に辿り入つたのであらう。人の世の三十五歳、人はいざ知らず、予は決して友の為めに短かかつたと云はぬ。既に久遠の生命を捉へた哲人梁川にあつては地上の五年十年、畢竟(ひつきやう)何する者ぞ、彼は明らかに生死の問題を超越した達人であつたのだ、と。取残された哀れなる予は、今辛(から)くもみづから慰むるのである。(完)
 
 
(北門新報 明治四十年九月二十七日)

 
 

  底本:石川啄木全集 第4巻
    筑摩書房
    1980(昭和55)年3月10日初版
 

  入力:新谷保人
  2006年3月7日公開