手宮駅員の白殺未遂
重禁錮三ケ月の前科者情婦の為に自殺を図る
 
石川 啄木
 
 
 
 
 一昨二十二日午後四時頃、小樽手宮停車場駅員葛西亮治(二四)なる者が同駅内巡査派出所に於て白殺を遂げむとし、所持の小刀(ナイフ)を以て咽喉部気管を切断したる大椿事あり。本社員は直(たゞち)に車を飛ばして探訪に従事したるも、何しろ事派出所内に起りし事とて容易に其真相を得る能はざりしが、精探の結果、漸く左の事実を報道し得るに至れり。先づ自殺者亮治の
▲平生の素行より記さむに、現住所は区内花園町七番地にて、実母スガ及び兄某の三人暮(くらし)なるが、兄は日傭人夫を業として一家の生計を立て居るより、従つて余裕などあるべき筈もなく、亮治は毎月多くもあらぬ給料より若干円宛(づゝ)の食料を出して手伝をなし居る次第なるが、嘗て三十八年八月頃、当区郵便局雇を奉職中、価格表記郵便物を窃取して重禁錮三ケ月の処分を受けたる事あり。其後為す事もなくブラ付き居り、本年四月六日に至りて手宮駅に臨時人夫として雇はれしが、悪事を働く丈けありて如才なく立廻り働き方も普通以上なるより、十月八日となりて日給四十銭の駅夫に採用され、貨物主任助役の下に貨物受渡立合に従事し居たるが、表面頗る謹直にて職務を粗かにせざるより、誰一人亮治を疑ふ者なかりし。然るに去る十五日となりて
▲一団の暗雲俄かに亮治の身辺を包みぬ。同日朝、同駅発の一〇一列車乗務山田車掌は、発車間際になりて助役に打合をなす必要あり、五円紙幣一枚、一円紙幣一枚外、銀貨銅貨合せて六円五十九銭在中の財布其他を入れたる折鞄(をりかばん)を貨物緩急車内の机の上に置き、折柄其処に立合のため来合せ居たる亮治に保管を頼みて駅長室に入り用を済せて帰り来り、何心なく財布は衣嚢(ポケツト)に入れて発車したるが、途中にて前記紙幣二枚六円だけ紛失し居るを発見し、翌日に至り其旨駅長に届け出でたり。然るに取調の結果は亮治の外に疑ふべき者もなかりしかど、前記の如き平生なれば如何にも心外の事とて、駅長は同人の同僚及び主任助役に命じて詳しく其動作を探索せしめたるに、意外なるかな、今迄謹直を装ひしは巧みに猫の皮を被つたものにて、其実種々なる不品行を発見するに至りたり。中にも思懸けざりしは、色内町田中病院の
▲某看護婦を情婦とし、毎日稲穂町畑十四番地九山といふ暖昧鳥屋にて密会し居る事判明し、其費用及び化粧品等を買つて与(や)る為め或は窃取したるならむとの疑起りしが、十七日に至り、同人は短靴一足及び中折帽一個を購入したるを確かめたれば、日給四十銭の薄給にて且つ家計も前記の如き次第なるに左る余裕あるべき筈なし、之は的切例の金を抜き取りたるに相違なしと認め、同駅長は駅内請願派出所の大江巡査に其旨訴へ出でしかば、一昨日同巡査は本人を引致して取調に着手せしに、仲々自白せざりしも、午後三時頃に至りて漸く包み切れずして委細白状に及びたれば、大江巡査は勝手元に働き居たる妻女に監視を命じ置きて駅長と打合せの為め一人停車場に至りたり。然るに間もなく亮治は悲鳴をあげて苦しげに唸り出したれば、妻女は驚きて直ちに停車場に急報し、巡査及び駅長は取る物も取敢へず駆付けしに、
▲派出所内は血の海を漂はしし如く、亮治は其中にありて七転八倒の苦みをなし居たり。早速附近の佐藤医師を呼びて応急手当を施し更に福原病院に入院せしめたるが、何しろ気管を切断したるを以て一時は到底助るまじく見えしも、咋日の模様にては余病さへ起らざれば生命丈けは取止むる見込ある由。
▲自殺の原因は無論罪跡露見の結果なれども、前科者が僅か六円位の窃盗事件露見して三四ケ月位入監するとも死ぬ迄の覚悟をなす筈なかるべく、畢竟これは情婦なる看護婦の思惑を忖度して遂に精神に異状を来したる為ならむといふ。
 
 
(小樽日報 明治四十年十月二十四日・第三号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2005年10月24日公開