浦塩特信 (十月七日付)
 
石川 啄木
 
 
 
▲露国官憲と日本人 戦後当港を中心として東部西伯利亜(シベリヤ)に入込める日本人総数既に六万余に上り、戦前に比して一層活気ある発展を為しつゝ上あるに対し、露人の感情は一般に好意的にして交戦当時の事は完く念頭に無き有様なれども、露国官憲の態度に至つては現今に於て猶戦役中の警戒を持続するに異ならず、外国人の旅行は露国政府により警戒の監視を享(うく)るのみならず、其発信の如きは悉く検閲を経ざるべからず。特(こと)に日本人に対しては一層厳重にして、浦塩(ウラジホ)イルクツク間の書信にさへ数日を要する事珍らしからず、殊に奇なるは、一旅行者が当港より恰爾賓(ハルビン)なる知人に発したる電報が、翌日汽車にて先方に達したる後(のち)に到着したる事実さへあり。此(かく)の如き状態なるが故に通商取引の交渉に際しても機を失する事常にして、商業の発達を沮害(そがい)する事尠少ならず。又輸入貨物の如きに至りても、兵器弾薬煙草其他の禁制品ならずやとて、屡次(しばしば)苛酷なる検査を受くる事ありて商人の困難一方ならず、要するに露国官憲現時の態度は日本人に対して善意の観察をなす能(あた)はざるが如し。
▲荷物と旅客 露国官憲の態度如斯(かくのごとく)なるが故に西伯利亜唯一の呑土口(どんとこう)たる当港の形勢も未だ甚(はなは)だ良好といふ能はず、其出貨としては商船会社及び露国東亜汽船等が大豆及び大豆粕を得るに過ぎず、其他は概して不振の状あり。幸にして旅客の多数なるが故に、漸(やうや)く相応の営業を継続し得る位の有様なれば、一般商界の活動力は将(まさ)に勃発せんとしつゝ官憲の為めに窘縮(くんしゆく)されつゝあるの傾(かたむき)を呈せり。
▲浦港の将来 露国政府にして其施設方針を商工業の開拓に置くに至らざる限り今日の状態より発展すること困難なるが如しと雖(いへど)も、元来西伯利亜の富は軽々に看過する能はざる所にして、曝漠たる原野は巨額の農産物を海外に供給し、其深林は無限の木材を産出すべき見込十分なれば、吾人は露政府が早晩時機の到るを待つて其半武装的の現状より一躍将に経済的交戦に移るの挙あるべきを想像するを得べし。而して此時機一度到来せば、浦塩の形勢は忽ち一変して実に驚くべき発達を見んこと亦(ま)た言を挨(ま)たず。
▲無査証旅券携帯者の上陸禁止 由来外国より露領に入るには、一九〇三年露国政府発布の旅券規則に由り、其国に駐在する露国領事の裏書したる旅券を携帯するに非ざれば上陸若しくは入国を許されざる規定にして、我国より渡来する者も同規則に拠り出発前帝国政府の下附したる旅券に我国駐在領事の裏書を受け之を携帯するを要し、戦後未だ当港との交通頻繁ならざりし時にあつては、渡航者の多くは横浜神戸長崎函館等露国領事館所在地より乗船せしを以て、其地駐在領事の査証したる旅券を携帯せしも近来渡航者の激増したるのみならず、小樽、敦賀、新潟、門司等領事館のあらざる港湾より当港に廻航する定期船若しくは臨時船増加したる結果盃証を受けずして渡航するもの多く、此等に対する旅券は本船着港の際臨検の商港務局官吏押収して上陸を許し、査証料二円二十五銭を同局に支払はしめ、便宜之が裏書を為せしが、去月二十六日商港務局長は沿海洲軍務知事より、爾後此取扱を廃し査証なき旅券携帯者は一切上陸を禁止すべぎ旨訓令を受けたり。然(しか)るに港務局長は我国船舶出港地に其領事館の設置なきを以て之を実施する時は渡航者の不便甚だしく、此規則を励行して多くの渡航者に上陸を禁ずるは事実に於て不可能なるのみならず、一片の通知をも発せずして伐(には)かに今日迄の取扱を変更するは穏当ならずとの理由の下に、軍務知事に向つて実施延期を申出たり。我が領事も此事に関し商港務局長に諮(はか)る所ありしが、局長は前述の事実を述べ知事より回答ある迄は当分今日迄の取扱を持続する意見なりと答へたる由。我領事よりも軍務知事に向つて公然交渉を開始したれば、其結果如何になるべきやは目下未定の姿なれど、当国上陸者旅券規則は前記の如くなるを以て今後無査証旅券携帯者を上陸を禁止さるゝ場合あるやも保し難く、其際抗議を申出る何等の効なきを以て渡航者は予め手続を履(ふ)み、上陸拒絶の不幸に逢はざる様注意すること肝要なり。
△義勇艦隊と船車連絡 当港敦賀間の定期船は、義勇艦隊汽船毎週月水曜日出帆、毎水金曜日敦賀着、翌日敦賀出帆、毎土月曜日当港着の筈にて、前者は日曜日当地発欧洲行露国急行車に、後者は万国寝台会社列車に連絡すべく、使用船は当分リーモン号及びルーモン号を使用すべく、運賃は浦塩より一フードに付き八哥(コペツク)、敦賀よりは六哥(コペツク)なりと。又大阪商船会杜汽船鳳山丸は火曜日敦賀発、木曜日当港着、同日発の露国急行車に連絡する都合なり。
△海底電線の買上 当港長崎問海底電線(七百四十海里)は、対嶋経由長崎釜山間(四十二海里)及び長崎上海問(四百十七海里)と共に大北電信会社の経営せる所なるが、日木政府は嘗(かつ)て日露戦役以前に其買上を交渉したりしも遂に決定するに至らざりしが、今回更に交渉を開始し、同会杜の代表者二名は目下東京にありて逓信省と合議しつゝありと云へば、遠からず買上の運びに至るべく、其上は一般の、電信料も低減せらるゝ由なり。
▲露国大蔵次官の来浦 西伯利亜鉄道沿線及び満洲の視察を了へたる露国大蔵次官は去月二十五日当港着、詳細なる視察を遂げ、二十八日モンゴリヤ号に搭乗して長崎経由上海に向へり。次官の視察は当港将来の運命に多少の影響あるべしと信ぜらる。
△露領北海航路 露国極東興業汽船会社は曩(さき)に浦塩(ウラジホ)、勘察加(カムサツカ)、オコートスク問航路開始の目的を以て設立されたるものなるが、使用船舶、賃金、発着表等に関し多少其予定を変更して、使用船三隻中の一隻なるドネープル号に代ふるにアムール号を以てし、其第一回出帆は予定より一週間遅れて去る八月廿五日、次回は九月五日、函館経由し勘察加に向ひしが、乗客の大部分は欧露より勘察加に向ふ移民にして、第二回目には百名余に上りたりといふ、猶一航海の日数は約三ヶ月、オコートスク海アヤン港迄約ニケ月半を要すと。
▲米国艦隊と浦港 今回極東に廻航する事となりて世界の注目を引きたる米国戦闘艦隊にして、一旦事ある時は浦塩を根拠地として使用し得るの妥協成れりとの噂何日(いつ)しか当地に伝はり、揣摩(しま)臆測の巷説区々たれども、信用ある階級の人士は一笑に附しつゝあり。
 
 
(小樽日報 明治四十年十月十五日・第一号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2005年10月15日公開