疑うべきフゴッペの遺跡
 
違星 北斗
 
 
 奇怪な謎
 
 フゴッペの丸山に奇形文字と石偶が発見されたことは、考古学上の一大問題であり、我等アイヌにとっても奇怪な謎であった。
 果して何を語るものだろうか。愛郷の念禁ずるあたわず郷土を誇りたい願いは敢て人後に落ちない者であるが、名物の為に学説を断じて曲げてはならない。疑う可きを疑い信ずべきを信ずる、慎重な態度で厳正討究を尽さねばならない。然し軽率に否定して、まかり間違えば貴重な史跡を堙滅に導く恐れあり、或は単なる名勝気分から疑を排して肯定しては、これ亦、日本に生立ったうら若き土俗学への害毒であるのである。科学万能に中毒しても困るが、それかというて徒に想像を逞しゅうしてもそこに確たる傍証がなくしては畢竟想像に了るの外はないのである。
 私は、アイヌであることを幸にしてこの土俗学的に、而も実際私共の経験することの出来るものを比較研究して、どれだけの疑問があるかを述べ、併せて江湖の叱正を仰ぎたいのである。
 
 
  一 フゴッペ丸山
 
 往古「鍋を持たない土人がいて生物(なまもの)ばかり食べていた」というので、その土地を、フーイベと余市のアイヌは名を附けていた。然るに同じ土地を忍路(おしょろ)のアイヌは、蛇が沢山いるところだったのでフウコンベツと呼んでいた。
 地名及び領域を調査した開拓当時、はしなくもこの土地が問題になった。余市アイヌは、蘭島とフゴッペの中間の山を境界に余市領だと主張したのに反し、忍路のアイヌは、否、ポントコンポをもって境界とすると争うたという。結局余市の主張したことによって決定して以来フウクンペとなまりて畚部の文字を宛てたという。
 ポントコンポとは今問題の中心である丸山の原名である。Pontokompoとはその形がちいさいこぶに似ているところから発生した。一名これをMonchashi-kotともいわれているが、或人はそれはポンチャシコツの間違いであろう(西崎氏の裏山の事)といわれてはいるが、単に家の形に似ている山というところより、モチャシコツと称されたのではなく、フーイベといわれた時代の住宅地跡?に関係あるものではないかと思われるのである。
 私はこの夏、余市における先住民族遺物分布地地図を作るべく調査した時、今の丸山は遺物散布地に囲まれていることと丸山の西北側十間(鉄道より八尺)程の地点に、小さな貝塚のあること等を認めたのであるが、今是を考うるにポントコンポの名称よりもモチャシコツの方が或は古いのではあるまいかと推されるのである。
 
 
  二 先住民族は非アイヌ
 
 祖先を尚ぶことは尤もアイヌの特徴である。にもかかわらず、全国を通じて大規模にある遺跡についてアイヌはこれを自分等の祖先のものに非ずという強固な説を立てているのは何を物語っているのか。この生々しい貝塚や、土器や石器の製作の方法も知らず、更に使用の目的も不明であるとはそれは単に長年月を経過したばかりが理由でなく、やっぱり先住民族は非アイヌであることを裏づけているものではあるまいか?
 神秘的古典神話を忠実に伝承して来たアイヌが、石器や土器を生活品に用いたということを少しも伝えていないというわけはないのである。アイヌは先住民族を矮小な人種だと伝えていることは既に知られている通りである。私は「だから小人が実在していた」とは結論するものではないが、しかしアイヌ人種以外に他の種族が全然居らぬという証拠にはならない。
 殊に尊敬すべき祖先の力作を架空な人種のお手柄に移転するが如きはありうべきことではないと想像するに難くないのである。小人説はあまりにも誇大無稽のようではあるが、その幾割かの事実をひき出す端緒となるのである。即ち当時のアイヌよりも確に背も低かった者がいたというその実在の反映であることは否定出来ないのである。
 これについて有力な異説を発見した。先日余市のチャシについて北海道史の附図の相違点を教示してもらうべく、余市第一の古老ヌプルラン・イカシを訪うた時、コロボックルの話を聞いた。
 イカシはいう「お前はコロボックルというが、それはそうじゃないKurupun,unkurというんだ」「クルは岩だ。水かぶり岩だ。ナニ水の底にあるごろんだ(粒々の)石のことだ」「ナンデモ石に親しんだもので恰も石の下にでもいるような人種だからアイヌはこれを形容してクルプンウンクルとよんだもんだ」との意見であった。(昭和二年七月三日)
 私は非常に面白いと思った。私の兄に話したら「馬鹿いえ、水かぶりの石の下……サル蟹じゃあるまいし」と一笑に附されたのであるが、発音はKurupun,unkurというのが正しいと父もいっていたのである。石に親しんだものだから石の下の人とよび、背が低かったから色々な説話も生れたものであって、要するに実在の重大な反映と做すものである。
 クルプン・ウンクル、それは純人類学者によっていずれの人種に属するか?懸案であると思う。
 
 
 
 
  三 読まない文字
 
 その昔、シャモ(内地人)とアイヌが物々交換をやってた頃は「始まり」と一本ずつ数をごまかされたという有名な話があるが……然しそれでも「十よ」といえば、縄に結び目一つ加えて記録に表示したという。これを学者は結縄文字と名附けている。
 我々は文字といえば、直に読むものとのみ思っていたに、読まない文字があった。原始絵画がそれである。また言語といえば声を使うことのみと思われやすいが、全然声を要せない言葉がある。言語学者の説を請売りするまでもなく身振語である。数理にうといアイヌが記憶の継続を計るために発明した記号はToppa shiroshiというて、単に縄ばかりでなく、棒に刻目を彫(つ)けて明確を期したという。私はこれを仮にトッパ文字と命名しておく。世界文明史に一大進歩の足跡を印することの出来た文字でも、その先駆をなしたものはやはり単純なトッパ文字式のものより起り、絵画や象徴的記号が時代と共に発達したことは事実である。
 アイヌのトッパ文字について面白い一例を挙げるならば、根室の奥地、標津(しべつ)原野を測量した当時北見から来たアイヌの人夫サンケチヤチヤがドロの細枝を皮むきにして持って歩き、一日暮すと件の棒に一つ刻目を入れる。毎日それが彼の日記のように反復していた。そして彼にだけわかる刻木は良く彼の記憶を継続させ直感的に表示されたものだと、間宮鴻一郎氏の談である。
 原始的圏内から出でなかったアイヌのトッパ文字は、思想の伝達――言葉を写す符号――とまで発達しなかった。ただ単に記憶を呼び起すために案出された一種の記憶術であって、自分より外には判ずることも出来なければ無論読むことは出来ようはずはない。丁度声を使わない言葉に、身振語があるように読まないトッパシロシが原始的アイヌ民族にあったのである。
 
 
  四 Ekashi shiroshi
 
 外観、最も文字に似ているものでエカシシロシ(エカシは老翁、シロシは記号)というのと、フチシロシ(フチは嫗)というのがある。その起源については未だ研究し尽されていないが、やはりトッパ文字の本質より発生して案出されたものであろうと信ずる。右の記号は宗教的にのみ存在の意義があるものである。この外にトーテムの表徴か、カムイシロシとて神事に用うるものもあり、又、個人の雅号にも似た記号もあるのである。
 アイヌは死後の生活を他界に至って、この代さながらなる霊魂の生活に入ることを固く信じていた。フチシロシは女子に、エカシシロシはそれに対する男子専用のもので、どういうものか二つに分れている。両者とも先祖が伝え残したもので現世と死後の世界へかけて大なる働きを持っている。霊魂の世界に入っている祖先の一氏族は男女の二系統あって、順次死んで逝く人の霊魂は系統をたどって部族の一員に編入さして貰うのであって、その際、男はエカシ、女はフチのシロシを携帯して行かねば、子孫と祖先の血縁が不明であって、従って、あの世に落着くことが出来ないで幽明界に迷うものとされている。であるが故に、死者を葬る時は必ず右の記号を刻みこんだものを副葬するのである。死の国の祖先を系統的に現したものであるから、仏教でいう所の戒名の如く、尊厳なみだりにシャモ(内地人)などへ知らしめないことが原則である。
 左のものは上場所を主としたアイヌの記号の一部分である。
 
          
 
         
 
 
 
  五 Ekashi shiroshi の系統
 
 偖エカシシロシは前述の通り大切なものであるから秘密にしておく場合が多い。極端な昔堅気なエカシ(老翁)になると、なかなか知らせない。実子であっても低能児の場合は伝えないこともあるという。低能児の場合ではなくても子孫へ伝えないで死亡するようなことがあればサア困るのは遺族である。寄ってたかってエカシシロシを糺しあう。すぐわかれば事なくすむが、ややこしくなると大問題である。甲が「だろう」と言えば、乙は「イヤだ。」丙は「そうじゃない、だ。」「イヤじゃないか?……」「ナニを言ってるんだ、だと俺ン所のウタリー(同族)の物だ。」「ナンダとそれは違う。これは俺家の専売特許だ。」とに角にも静粛であらねばならぬ葬祭場が、エカシシロシ一つの為に遺族が喧嘩したという話も聞かされているのである、という程に大切なものであるから、戸主が老年に達してもはや死期近しと悟ると相続人を枕頭に呼び寄せて「我家の先祖は斯々の家柄である」とか、「トーテム的習俗もこれこれである」「カムイエカシソンノシロシは斯々であるぞ」と、恰も一子相伝の如く尊厳に伝授される場合が多いのである。(但し上場所方面を主とす)
 然らばエカシシロシは絶対に変改しないかというとそうでもない。或重大な場合のみ原形を破壊せない程度に替えることもある。それはつまり、甲の地より乙の地へ遠征してそこに第二の郷土を始めるときにのみ甲地の大酋長より、或は家長より、カムイシロシやフチシロシを授けられる。余市のK氏族のより派生したM家がに制定伝授された等が即ち好適例である。基本となる一形式をたどって全道のアイヌのこの種の記号を収録したならばアウタリ(同氏族)がどういう経路で散在しているか漠然としているにもせよ、我が同族の内なる系統をこれによって発見されるものではないか。
 読まない文字、尋ねれば斯くの如し。土俗学的に見たカムイシロシを傍証として推察の歩を進めたならば、手宮の洞窟に現われた奇怪な記号……果して読破されたであろうか……謎は依然として謎である。フゴッペの奇形文字は、本物であったとしても、これを読み下すべきものではないと私は信じている。アイヌの私がシャモの土俗まで遠征的に研究する程の勇気はないが、然し私の憶測を許して下さるものならば、日本の紋章について、次の如く考えている。アイヌのエカシシロシと家紋とは何等かの関係はなかったか?
 日本の商家又は農家には等は、それとそのままの記号がアイヌに今なお使用されていることである。日本に伝わっている家紋も、其の昔日本民族を構成した当時のアイヌ分子が微に残った面影ではなかったか。
 彼等が家紋を重んずるのも、我等がエカシシロシを大切にするのも、偶然かも知れないが一致しているではないか。エカシシロシがシャモに渡って家紋となった。しかしアイヌが単に神秘化したに反して、シャモは図案的に美術化したものではないか。シャモは更にまた階級によって威厳化したものであって……どちらもその案出された当初の意識――起源――をとくに忘れて、読まない文字として探求することができないまでに――推測をもゆるさない程に――進化したもので、二ツとも別な方向に進んだ。元は一つ腹から生れた兄弟ではなかったであろうか。問題を提出して識者の御教示を乞う次第である。
 
 
 
 
  六 Paroat
 
 アイヌは常に無駄な物は製作しない。従って無意味に落書はしない。とにかくイタズラをしない民族である。明治時代に入ってからでも児童に文字を書かせることをさせまいとして抑圧していたという話もある。
 アイヌは創作的物事や進取の気象も歓迎しなかったために、文化的でなかったのも、宗教的迷信が二十世紀まで原始の生活を持続さした大なる原因である。
 すべてのものに神聖のひらめきを感ずるあまり、悉く神のいぶきの通えるものとなして、すべてのものに生命ありと信じていた。自分達の手によって製作したものでも霊的に生きているからこれを丁寧に取扱う。いよいよ使用に耐えなくなっても放棄してしまうようなことはなく、これを又粗末な捨てかたをしない。器物を或る必要によって製作した場合でも決して中途半端にして止めることがない。半ば出来したまま放棄しておくとその未成品の器物の霊が己が使命の果さなかった悔恨が変化(へんげ)となって、その器物の製作を企てた者はいうに及ばず他の人間へも恐るべき祟りをなすものと怖れられているのである。
 シャモの学生が修学旅行して、深山において大木に自分の名を刻(ほ)りこんだり、何か記念に木或は石に刻みを入れることはよくあることであるが、アイヌは絶対にそんなことをする者はない。というのもその記号が妖怪変化となって世に現れると信じているから。穴を掘ることも怖れられている。穴を掘れば地妖に祟られるというので、死人を埋葬する墓穴ですら恐る怖る掘るのであって、それも明日出棺するものならば今日より穴を掘っておくというようなことは断じてなく、死人を墓地に運んでから墓穴を掘るのである。
 石偶も作らなければ、土偶も作らない。これは未成品とか完成品とかに拘らず絶対に作成しないのはその物に持てる霊が怖いからであって、石偶や土偶になるとpanpekarnsepa,paroat,というて極端に嫌悪されたものである。
 石器時代の遺物に数他の未成品が発見されるが、その点より見ても石器時代人の土俗と、アイヌ人の土俗とがここにも相違点があることが知れる。
 製作品に対する恐怖はカラフトに現住するギリヤークでもオロッコ人種でも共通の思想であると聞いている。父が樺太に長く熊捕り生活をしたので、あちらのアイヌもパロアツの思想を、イホマといって前述のものと同一であると明言している。アイヌは「無意味に穴も掘らない」「木も削らない」「未成品もない」「物に関するイタズラもしない」というparoatの思想が――恐るべき悪いこと、天災が来る前兆だと深く根ざしてあったことは誠にかくれたる大事実であるのである。
 芸術的彫刻の場合でもToppaとkamuiaiの様な宗教的用途の物の外にはない。人面なぞはもっての外のことである。
 
 
  七 呪禁
 
 呪禁については未だ研究中に属する問題であって明言はされないが、某氏の推測を一寸紹介する。
 丸山は昔から気味悪い所とされているところで、妖怪が出没するとのいい伝えがある。それもその筈だということが今になって分った。得体の知れない文字、恐るべき石偶があの山に秘められていたから、その悪霊があの附近をして魔の場所となさしめたものだ。察する所クルプンウンクルがアイヌに圧迫された恨みは深く浸み込んでいたので、アイヌの最も嫌悪する呪詛の像をこの山にとどめたもののように思われる……しかして文字は痛恨置くあたわぬアイヌ族を対象に画き現わされたエカシシロシであろう。そして彼等クルプンウンクルは何処ともなく立去った……のではないかと。
 尤も丸山は怪談に富んでいるところではあるが、然し私はこの説に類似すべき土俗を未だ聞いたことはないから、これを否定する力を持合していないが、又この説はとりどころのない極めて幼稚のものであることも注目に値するのである。
 土俗学上に尤も重大な根本に触れるものは禁圧方法で、こればかりでも重大問題で到底私なぞのくちばしを入れる処でないから暫くお預りとして置いて、以上列記した傍証をもって正体を探ろう。
 
 
  八 現状に就いて
 
 丸山は元より孤立した形の山であったというが、全然孤立したものではなく、山と山とが続いていたものであって、明治三十七年函館小樽間鉄道の開通した当時あの山は十尺余り切通した跡が歴然と残っている事は誰しも認めている通りである。
 爾来時折り彼の山麓より土砂を取り線路の築堤に提供したといわれる。築堤の土砂は浜の砂のような固着しないものは用いられない。今回盛土工事に撰ばれた土質は多少粘土の混じているところからであって、件の土砂は全部丸山から崩れ落ちたものである。人の知る如く丸山の南方はフゴッペ川の曲りくねって流れた痕跡があって、最近までヤチであったのである。崖崩れもしなかったならば、もとより豊富に土砂のあり得べき所でない。発見者宮本氏の談によれば、今回土砂の搬出されたものはおおよそ四升六合とのことであるが、然し彼処の地層――表面の腐植土へ年を経て重なり合ったところを――発見者も研究発表者もそこに大なる注目を惹かなかったことは該遺跡にとって寔に遺憾千万である。私がようやく聞きつけて馳せ参じた時は、もう地層が破壊されてしまった。かすかに見とどけたところでは、南方ヤチにあたる地平線の砂層を起点として、一尺以上にして最高三尺を出でまいと思う程の古着土があったきりで、余は全部崖崩れの土砂をもって覆われた形跡があった。
 十五尺程ほり下げて発見したというのに驚かされたが、それは地平線を起点とした尺度でなく仕事を始めたという丸山の中腹からの話であって、これを正しく地平線から起算するならばほり下げるどころか四尺以上五尺の高所にあることは実見者の等しく合点された事実である。
 土砂がなだれて上層をなすに至る以前、即ち原形表土から論ずると、洞窟としての不適地であることが窺われるのである。そこで私は彼処は二三十年この方一度でも彼の石偶のあたり露出したことはなかったかと疑うものである。
 ここは畚部川が屈曲して丸山をかすめて流れた頃、ローマンスに富んだフーイベウンクルが川の幸を称えつつ、北風を避けたこのあたりに榾火を囲んで談笑した……或年間……も聯想されるし……アイヌを怨んで嘆息した……年間……も亦偲ばれる。
 
 
  九 アイヌの物か
 
 私は未だ発見されない以前にこの丸山の東側より骨片を拾ったが、これは何の骨であるかは判別されなかった。この附近で骨片の発見されることは何も問題の彎曲前面にのみと限ったものではないのであるが、とにかく往古の墓地であったらしい痕跡もある。
 モチャシコツという名称から見ると人間の生活地帯であったことが窺われる。奇怪な記号は謎ではあるけれども、アイヌのエカシシロシと偶合していることより推せば、或はアイヌの遺跡でないかとも考えられる。更にこれを土器や石器が出たということからこれを見ると、クルプンウンクルに近くなり、呪禁的作物だという説を取り入れると、アイヌ以外のものになる。西田氏の申された屈葬された形跡……という方面から見ると、アイヌには屈葬の風習は絶対にない。
 芸術的力作としては異論もあり、記念すべきアイヌの作と見たとしたら、アイヌにはそれこそ事誇大に伝承されるはずであるのに全く知られていないということは、記念の意思に反している。殊に上場所第一の古老ヌサマカ翁は根本的に排斥していること等はどうしてもアイヌの作でないことが、アイヌによって立証されるのである。
 パロアツの思想からこれを見ると一層極端にアイヌ説を遠ざかることになる。
 ただ問題は記号である。私は憶測する。或はクルプンウンクルにもエカシシロシようのものがなかったか。それは比較して見るとやっぱり、クルプンウンクルの遺せるものであると帰納するすることが出来る。
 然らば果して何を物語るか。あわてて結論に入る前にここに大なる疑問が課せられてあった。本遺跡は果して本物であるか? の穿鑿如何によって結論すべきである。
 
 
  十 結論
 
 アイヌの作でないとなると、先住民族のものと見ねばならない。手宮の古代文字を論じた中目覚氏は「実に斉明天皇六年、神武紀元千三百二十年(西紀六六0年)大正九年を去る千二百六十年前である」というている。然らば我フゴッペのものは果して手宮と前後したものであろうか?
 先ずポントコンポの石の性質からこれを見ると唖然たらざるを得ない。岩石については門外漢の私でも砂の固まりだということは分る。あの附近に石切り山があるがその石はあまり石質が軟いので使用に耐えないというので廃棄してしまった。石切り山の石は五寸位の厚さの塊でも激しい点滴に一ケ年も晒されると崩解して砂だけになるのである。石切山の石よりもむしろ軟い彼の丸山の岸壁は、極めて埋?作用に侵され易い性質であることも説明するまでもない。彼の問題の石偶は露出したまま風雨に五年も晒したならば雪だるまの様に影も形もなくなることを保証する。
 石偶はどうして出来たか。崖壁を削り而かも浮彫りというよりも独立さして製作した程にあの上壁を削ったであろうか。否、石偶と見えしは多年の間、侵蝕作用に依って剥脱されたが、少しく質の堅味のあった箇所だけ奇妙に残存したものではないか。だからこそ口にも鼻にも年代を証する古色が一寸もないのである。(さもなくば新しいから)。
 文字を振りかえってみるとそこには古い刀痕が皆無である。よしや刀痕はなくとも彼の記号筆勢を見よ、そこには手宮のものとは雲泥の差があることに気がつくであろう。如何にも細い描線で現された奇怪なる記号はどこに千古の神秘を今日我々に語り得る資格があろうか。土に掩われていたにしても、もすこし埋?の痕跡があって然るべきである。指をもってあれに似た文字を二十や三十描くには困難な業ではないといったら誇張だという者もあるかも知れないが、それは決して虚言ではない。彫刻面の角ばっているのはどうしても新しい作とより見るの外はないのである。してみればアイヌの物でもないことは前述の如くであるし、又論じ来ればクルプンウンクルの遺物でもなくなる……?
 奇蹟として満足するか。神秘として気休めするかというものであったら、土俗学は単なる思索の遊戯だ。我々は少なくとも掴み所がなくてはならない。一日も早く大家の責任ある研究を切望して、アイヌの土俗学的参考資料の一部分を例証したいものである。偽作じゃないかと疑問をいだく私でも、これを保存するに努めることには賛成する。伝説の地として、又遺物の集散地域として……。
 終に臨んで一言したい。手宮の洞窟についていうこともあるが、他日稿を改めてアイヌの目から見た考察を公開してみたいと思う。
 
 
 
 

   底本:北海道文学全集 第11巻
    立風書房
    1980(昭和55)年11月10日初版

 

  入力:新谷保人
  2004年5月5日公開