小樽日報と予
 
石川 啄木
 
 
 
 小樽の地、元オタルナイと称す。蕞爾(さいじ)たる一漁村、僅かに三十年にして人口既に十万を数へ、其膨脹の急速なる、当局者と雖も容易に前途を予測すべからずと称す。商港としては夙(つと)に函館を凌駕して北海道第一位に上り、貨物集散の頻煩と人口の増加率とは多く其比を見ず。日露の協約成立を告げてよりは、更に対浦塩の貿易に於て覇を敦賀と相争ふに至れり。此溌溂たる活動の小樽に於て新聞の創始せられたるもの、四五にして足らず、然も多く中道に弊れ、独り上田重良氏の小樽新聞あり。号を重ぬる三千幾百、独占既に五星霜、印刷紙数一万を超えて漸く北海タイムスの塁を凌がんとす。然も之を区の大勢と位地とに見、人口の多寡を稽(かんが)ふるに、小樽の地は遂に永く一新聞の独占を許し難きものあり。茲に於てか我が小樽日報の生れたる、決して偶然ならざりし也。北海事業界の麒麟児山県勇三郎氏及び其令弟中村定三郎氏資を投じ、前福島県選出衆議院議員にして今本道々会議員たる白石義郎氏社長たり。本社を稲穂町字静屋畑十四番地に置き、明治四十年十月内外の準備略々成る。
 九月、予函館より札幌に入り、北門新報社に校正子たり。僅かに十日、同県の友小国露堂君の斡旋により、俚謡詩人野口雨情君と共に入りて日報の創業に参加する事となり、同月二十七日夕、秋風と共に小樽に入れり。
 十月一日第一回編輯会議を開く。集るもの七吊、主筆は江東岩泉泰君にして、三面に雨情野口英吉君と予、外交に当るもの樵夫西村衛君あり。二面は主席を欠き、鴻鐘佐田庸則君、孤堂金子満寿君外交を分担し、外に商況記者として黄州野田金太郎君あり。此日白石社長声明して曰く、日報創業の目的、之を小樽実業の機関たらしめむとするにありとは云ひ得ざるにあらざれども、要するに道楽六分の新聞にして、他に何の特別なる目的も主張も有せず、唯小樽の地に二或は三の新聞の生存しえられざる理なき故、日報は宜しく単に新聞としての自明の目的に向つて発達せしむべし、其資金の如きは独立経済を立て得るに至る迄は何年と雖も年に一万金を注入すべしと。日報の前途は大に楽観すべきものゝ如かりき。
 越て五日、初めて工場整理を告げ、原稿を下せり。予の(初めて見たる小樽)は実に日報最初の原稿なりき。
 十月十五日初号十八頁を発行し、楽隊を立てて市中に配布せり、然も其方法宜しきを得ず、工場亦上平あり。事務の在原清次郎弾劾の声社中に満てり。夜、社主中村氏の招待を享けて同人静養軒に賀筵(がえん)を開く。宴半ばにして工場の総員を集めたる提灯行列の一隊楽隊と共に楼前に来り歓呼の声雷の如し、乃ち盃を投じて立ち、紅燈を手にして共に其列に入れりき。
 是より先、予と野口君との間に主筆排斥の企あり。佐田西村亦加はる。要は江東の人格遂に我等の長とすべからず、且つ其編輯の技倆陳にして拙、剰(あまつさ)へ前科数犯ある兇児なるが故に、須(すべか)らく彼を社外に一擲して、以て編輯局内に一種の共和政治を布かむとするにありき。之実に第一回編輯会議の日に於て既に予らの話題に上りし事たりし也。金子之を主筆に通じ、事露顕す。初号発刊の夜、主筆野口君に云ふ所あり、翌日同志相議す。皆頓(とみ)に軟化して真骨頭なし、予一人蛮勇を奮はむとして抑へられ、事遂に画餅に帰せり。
 休刊一週日、二十三日に至りて第二号を出せり。工場整理未だ完からず、第三号よりは暫く四頁とする事とせりき。
 三十日に至り、主筆の権謀功を奏して、野口君遂に社を去れり。此日は予等が初めて棒給を与へられたる日なりき。予は最初二十金の約なりしも二十五金を与へられる事となれり。之一に主筆が予を懐柔せむとする策に出づ。野口君去ると共に予は三面主任たり、十一月一日三面の編輯は主筆の手より分離したり。
 予が毎日筆にする処三百行以上に上る事敢て珍らしからざりき。剰(あまつ)さへ一面の文苑と新刊紹介亦予の分担に属せりき。之実に社中其任に当るの人を得ざりしが為めのみ。朝は九時に出社し、夜は多く九時十時に帰れり。主筆は五時六時に至りて漸く編輯を〆切り、余事を予に一任して帰れり。当時社中には電報を満足に訳する人さへあらざりしなり。且つ若し電報来らざれば、予は他紙を参照して必ず数通の電報を偽造せざるべからざりき。
 世上の反響をきくに、日報社の信用はあれども、日報の信用は殆んど皆無なりき。之一に主筆の罪に帰せざるべからず。予は日夜之が為めに憂惧し、一度大硯斉藤哲郎君を入れて現状を打破せんと企てて成らず。
 是より先、予滝川より園田愛緑を呼んで校正子とす。二日にして去る。後主筆京極高明を入れて復二日にして逃げらる。十一月某日主筆再び佐々木律郎なるものを入れて校正子とす。社中皆上平の色あり。
 十一月九日、社長予に主筆解任の内意を洩し、後事を託して札幌に去る。道会正に十一日を以て開かれむとする也。予、機至れりとなし、翌十日急行札幌に社長を訪ねて逢はず。手紙を残して帰る。予は編輯長として札幌にある天峯沢田信太郎君を推薦し、且つ此秋を措て他に社中廓清の機なしとし、予及び佐田を除く外すべてを弾劾したり。鈴木志郎君事務より三面に入る。
 十五日、江東早く大勢を知り、(最後の一言)を草す。翌日社長札幌より手紙を以て主筆を解任したり。社中騒擾鼎の沸くが如し。同夜小林事務長をして校正佐々木を斬らしむ。彼は実に窃盗前科三犯の狡児なりき。
 十九日の紙上には予の(主筆江東氏を送る)の一文を載せたり。金子狂せるが如く、小林事務長は岩泉のために籠絡せられて、社中第二の禍根茲に根ざせり。予は衆人環視の中に立ちて陰謀の張本人を以て目せられ、一挙一動社中の人の進退に関するが如く思惟せられき。乃ち社を騒がすを快からずとし、辞意を社長に訴ふ。社長笑うて用ゐず。二十二日の紙上には沢田天峯鯉江天涯二君の入社の辞を載せたり。翌日白田北洲を窮地より救うて校正子とす。
 札幌支社の宮下某、金子と共に主筆の普代の臣たり。機を察して辞し去る。奥村寒雨君入り、金子支社に追はる。
 十二月一日、野田黄州、西村樵夫断首台に上る。理髪師笹川某を入れて三面探訪とす。
 第一回編輯会議以来編輯局を去らざる者、僅かに予と佐田君とのみ。編輯局裡既に新面目あり、紙面亦多少の活気を帯び来る。但事務の成績毫も揚らず小林事務長の如き徒らに職務以外の事にのみ奔馳して社業遂に空しからむとす。剰(あまつさ)へ、社主社長の社に対する、毫も最初の宣言の如くならず、這裡の秘密忖度に難からず、予潜かに平かなる能はず。
 十二月十一日予札幌に行き翌十二日夕帰社す。偶々小林言を構へて遂に腕力を揮ふに至れり。予乃ち翌日より出社せず、諸友に飛ばすに退社の通知を以てしたり。
 翌日白石社長に宛てて退社を強請するの書を送る。同人夫々来つて諫止すれども応ぜず。十二月二十日遂に社長の同意を得るに至り、翌二十一日の紙上には予の退社の広告を掲げぬ。日報生れて茲に五十二号。
 此一綴に抜粋する所は乃ち予が小樽日報紙上に書けるもののうち、特に当時を追懐すべきものを択びたるもの、天下家なき一風流児が新聞記者らしき生活に入れる最初の紀念なり。
 予の日報社編輯局にある、前後僅かに八十日。其日夕筆にしたる所は所謂尋常三面記事に過ぎず、然も其為めに殆んど自己みづからの時間を有する能はず。一冊の書を読まず。一通の書信をも静かに書く能はざりしと雖ども、追想一番し来れば、這間に得たる所実に甚だ多きに驚かずんばあらず。予は此活知識が他日必ず予を益する事あるべきを思へり。
 
附記
巻中に収むるものの内、世上の出来事を報じたるものは多く西村君笹川君其他より材料を供給されたるもの、又所々に挿入したる木版画は予の嘱を享けて桜庭ちか子女史が日報の三面に画けるものなり。
[明治四十年十二月稿]
 
 
(小樽日報 明治40年12月21日・第52号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2003年12月25日公開