札幌
《スワン・バージョン》
 
石川啄木 原著  新谷保人 編集
 
 
 
 
 
 社に出てから初めての日曜日、休みではないが、明くる朝の新聞は四頁なので四時少し前に締切になった。後藤君はその日欠勤した。帰って来て寝ころんでいると、後藤君が相変わらずの要領を得ない顏をして入って来て、
『少し相談があるから、今夜七時半に僕の下宿へ来たまえ。僕は他をまわってそれまでに帰ってるから。』
と言って出て行った。すぐ戻って来て私を玄関に呼出すから、何かと思うと、
『君、秘密な話だから、一人で来てくれたまえ。』
『よし、いったい何だね? 何か事件が起ったのかね?』
『君、声が高いよ。おおいに起った事があるさ。わが党の大事だ。』と、黄色い歯を出しかけたが、すぐムニャムニャと口を動かして、『とにかく来たまえ。なるべく僕の所へ来るのを誰にも知らせない方がよいな。』
 そして右の肩をあげ、薄い下駄を引きずるようにして出て行ってしまった。よく秘密にしたがる男だ。
 
 私が初めて札幌に行ったのは明治四十年の秋風のたちはじめた頃である。――それまで私は函館に足をとめていたのだが、人も知っているその年八月二十五日の晩の大火に会って、幸い類焼はのがれたが、出ていた新聞社が丸焼けになって、急には立ちそうにもない。なにしろ、北海道へ渡ってようよう四ヶ月、内地から家族を呼びよせて家を持ったばかりの事で、土地に深い親しみはなし、私も困ってしまった。そこへ道庁に勤めている友人の立見君が公用かたがた見舞いに来てくれたので、さっそく履歴書を書いて頼んでやり、二三度手紙や電報の往復があって、私は札幌の××新聞に行く事に決まった。条件はあまりよくなかったが、この際だから腰かけのつもりで入ったがよかろうと友人からも言って来た。
 
 
 
 私はその晩の事が忘れられない。
 
 夕飯が済むと、立見君と目形君は、教会に行くと言って、私にも同行をすすめた。私は社長の宅へ行く用があると言って断った。そして約束の時間に後藤君の下宿へ行った。
 座にはS新聞の二面記者だという男がいた。後藤君は私をその男に紹介した。私は、その男がいわゆる「秘密の相談」に関係があるのか、ないのか、ちょっと判断に困った。片目の小さい、始終唇をなめまわす癖のある、鼻の先に新聞記者がブラさがってるような挙動や物言いをする、厭な男であった。
 
 少したつと、後藤君は私に、
『君はもう先に行ったのかと思っていた。よく誘ってくれたね。』
 これで了解(のみこ)めたから、私もいい加減バツを合せた。そして、
『まだ七時頃だろうね?』
『どうして、どうして、もう君八時じゃないかしら。』
『待ちたまえ。』とS新聞の記者が言って、帯の間の時計を出して見た。『七時四十分。どこかへ行くのかね?』
『ああ、七時半までの約束だったが…』
『そうか。それでは僕の長居が邪魔なわけだね。近頃は方々で邪魔にしやがる。ところで行先はどこだ?』
『ハハハハ。そういちいち人の行先に干渉しなくてもいいじゃないか。』
『かくすな! なあに、解ってるよ、ちゃんと解ってるよ。たかが君らの行動が解らんようでは、これで君、札幌は狭くっても新聞記者の招牌(かんばん)は出されないからね。』
『凄じいね。ところで今夜はマアそれにしておくから、お慈悲をもって、これで御免をこうむらしていただこうじゃないか?』
『よし、よし、今帰ってやるよ。僕だってそうわからずやではないからね、先刻御承知の通り。ところでと…』と、腕組をしてぢっと考え込むふりをする。
『何を考えるのだ、大先生?』
『ま、ま、ちょっと待ってくれ。』
『金なら持ってないぜ。』
『畜生め! ハハハハ、先を越しやがった。なあに。よし、よし、まだ二三軒心当たりがある。』
『それは結構だ。』
『ひやかすない。これでも△△さんでなくては夜も日も明けないって人が待ってるんだからね。そうだ、金崎のところへ行って三両ばかり踏んだくってやるか。……どうだい、出かけるなら一緒に出かけないか?』
『なあに、悪いところへは行かないから、安心して先に出てくれたまえ。』
『ばかに僕を邪魔にする! が、マアゆるしておけ。そのかわり儲かったら、割前をよこさんと承知せんぞ。さようなら。』
 そして室を出しなに後を向いて、
『君ら、ススキノ(遊廓)に行くんじゃないのか?』とうたぐり深い目付きをした。
 
 
 
 その男を送り出して室に帰ると、後藤君はがっかりしたような顏をして眉間に深い皺を寄せていた。
『とうとう追い出してやった。ハハハハ。』と笑いながら座ったが、張合いの抜けたような笑い声であった。そして、
『あれで君、彼奴はS社中では敏腕家なんだ。』
『厭な奴だねえ。』
『君は案外人嫌いをするようだね。あれでも根はお人好しで、訛(だま)せるところがある。』
『ただし君は人を訛すことのできない人だ。』
『そうか…………もしれないな。』と言って、グタリと頤を襟に埋めた。そして、手で頸筋を撫でながら、
『近頃ここが痛くて困る。少し長い物を書いたり、今のような奴と話をしたりすると、きっと痛くなって来る。』
『神経痛じゃないかしら。』
『そうだろうと思う。神経衰弱に罹ってからもう三年ばかりになるからなあ。』
『医者には?』
『かからない、ほかの病気と違って薬なんかマア利かないからね。』
『でも君、かまわずにおくよりはよかないかしら。』
『第一、医者にかかるなんて、僕にはそんな暇はない。』
 そう言って首をもたげたが、
『暇がないんじゃない、実は金がないんだ。ハハハハ。あるものは借金と不平ばかり。そうだ、頸の痛いのも近頃は借金で首が廻らなくなったからかもしれない。』
 後藤君は取ってつけたように寂しい高笑いをした。そして冷え切った茶碗を口元まで持って行ったが、ふと気がついたように、それを机の上に置いて、
『ヤァ失敬、失敬。君にはまだ茶を出さなかった。』
『茶なんかどうでもよいが、それより君、話ってな何です?』
『マア、マア、男はそんなに急ぐもんじゃない。まだ八時前だもの。』
 そう言って薬缶の蓋をとって見ると、湯はある。出がらしになった急須の茶滓を茶碗の一つに空けて、机の下から小さい鉄葉(ブリキ)の茶壺を取り出したが、その手つきがいかにもものぐさそうで、私のような気の早い者が見ると、もどかしくなるくらいのろのろしている。
 ギシギシする茶壺の蓋を取って、中葢の取手に手を掛けると、そのまま後藤君はじっと考え込んでしまった。左の眉の根がピクリ、ピクリと神経的にひきつけている。
 ややあってから、
『君、』と言って中蓋を取ったが、そのまま茶壺を机の端に載せて、
『僕らも出かけようじゃないか! 少し寒いけれど。』
『どこへ?』
『どこへでもよい。歩きながら話すんだ。ここには、(と声を落して、目で壁隣りの室を指しながら、)君、S新聞の主筆の従弟という奴がいるんだ。こんなところで一時間も二時間も密談してると人に怪まれるし、第一こっちも気がつまる、歩きながらの方がよい。』
『何をしてるね、隣の奴は?』
『そんな声で言うと聞えるよ。なあに、道庁の学務課へ出ている小役人だがね。昔から壁に耳ありで、そんなところから計画が破れるかもしれないからなあ。』
『いったいマア何の話だろう? たいそうもったいをつけるじゃないか? 蓋ばかりたくさんあって、中にどんな美味い饅頭が入ってるんか、いっこうアテが付かない。』
『ハハハハ。マア出かけようじゃないか?』
 
 
 
 二人は戸外(そと)に出た。後藤君はもう蓋を取った茶壺の事は忘れてしまった樣子であった。私は、この煮え切らぬ顏をした三十男が、物事をこうまで秘密にする心根に触れて、そして、みすぼらしい鳥打帽を冠り、右の肩を揚げてズシリズシリと先に立って階段を降りる姿を見下しながら、異様な寒さを感じた。出かけない主義が、何もしでかさぬうちに、活力を消耗してしまった立見君の半生を語るごとく、後藤君の常に計画し常に秘密にしているのが、やはりまたその半生の戦いの勝敗を語っていた。
 
 札幌の秋の夜はしめやかであった。そこらはもう場末で、通り少なき広い街路は森閑として、空には黒雲が斑らに流れ、その間から覗いている十八九日ばかりの月影に、街路に生えた丈低い芝草に露が光り、虫がが鳴いていた。家々の窓の火光だけが人懐かしく見えた。
『ああ、月がある!』そう言って私は空を見上げたが、後藤君は黙って首をたれて歩いた。痛むのだらう。吹くともない風に肌が緊まった。
 そのまま少し歩いて行くと、区立の大きい病院の背後に出た。月が雲間に隠れてあたりが陰った。
『やアれ、やれやれやれ――』という異樣の女の叫び声が病院の構内から聞えた。
『何だろう?』と私は言った。
『狂人さ。それ、そこにあるのが(と構内の建物の一つを指して、)精神病患者の隔離室なんだ。夜更になると僕の下宿まであの声が聞える事がある。』
 その狂人どもが暴れてるのだろう、ドンドンと板を敲く音がする。ハチ切れたような甲高い笑い声がする。
『畳たたいて此方(こち)の人――これ、此方の人、此方の人ッたら、ホホホホホホ。』
 それは鋭い女の声であった。私は足を緩めた。
『狂人の多くなっただけ、我々の文明が進んだのだ。ハハハハ。』と後藤君は言いだした。『君はまだこんな声を聞こうとするだけ若い。僕なんかはそんな暇はない。聞こえてもなるべく聞かぬようにしてる。他の事よりアこっちの事だもの。』
 そうしてズシリズシリと下駄を引きずりながら先に立って歩く。
『実際だ。』と私も言ったが、狂人の声が妙に心を動かした。普通の人間と狂人との距離がその時ズッと接近して来てるような気がした。『後藤君も苦しいんだ!』そんな事を考えながら、私は足元に眼を落して黙って歩いた。
 
『ところで君、そろそろ話を始めようじゃないか?』と後藤君は言い出した。
『初めよう。僕は先刻から待ってる。』と言ったが、その実、私はもうたいした話でもないように思っていた。
『実はね、マア好い方の話なんだが、しかし、よほど考えなくちゃ決行されない点もある…』
 そう言って後藤君の話した話は次のようなことであった。――今度小樽に新しい新聞ができる。出資者はY氏という名のある事業家で、創業資は二万円、維持費の三万円を年に一万宛て注ぎ込んで、三年後に独立経済にする計画である。そして、社長には前代議士で道会に幅を利かしているS氏がなるというので。
『主筆も定まってる。』と友は言葉をついだ。『先にH新聞にいた山岡という人で、僕も二三度面識がある、その人が今編集局編成の任を帯びて札幌に来ている。実は僕にも間接に話があったので、今日行ってぶっつかって見て来たのだ。』
『なるほど。だんだん面白くなって来たぞ。』
『無論その時君の話もした。』と熱心な調子で言った。暗い町を肩を並べて歩きながら、稀なる往来の人に遠慮をしいしい密(ひそ)めた声も時々高くなる。後藤君は暗い中で妙な手振りをしながら、『僕の事はマア不得要領な挨拶をしたが、君の事は君さえ承知すればすぐ決まるくらいに話を進めて来た。無論現在よりは条件もよさそうだ。それに君は家族が小樽にいるんだから都合がよいだろうと思うんだ。』
『それァまあ、そうだ。が、無論君も行くんだろう?』
『そこだテ。どうもそこだテ…』
『何が?』
『主筆は十月一日に第一回編集会議を開くまでに顔ぶれを揃える責任を受負ったんで、大分あせってるようだがね。』
『十月一日! あと九日しかない。』
『そうだ。……実はね、』と言って、後藤君は急に声を高くした。『僕も大いに心を動かしてる。大いに動かしている。』
 そうして二度ばかり右の拳をもって空気を切った。
『それならいいじゃないか?』と私も声を高めた。『どうせ天下の浪人どもだ。何も顧慮するところはない。』
『そこだ。君はまだ若い、僕はも少し深く考えて見たいんだ。』
『どう考える?』
『つまりね、単に条件がよいから行くというだけでなくね。――それは無論第一の問題だが――多少、君、我々の理想を少しでも実行するに都合が好い…と言ったような点を見つけたいんだ。』
 
 
 
 半生を放浪の間に送って来た私には、折りにふれてしみじみ思い出されるところの多い中に、札幌の二週間ほど、慌ただしいような懐かしい記憶を私の心に残した土地はない。あの大きい田舍町めいた、道幅の広い物静かな、木立の多い洋風まがいの家屋の離ればなれに列んだ――そしてどんな大きい建物も見涯のつかぬ大空に圧しつけられているような石狩平原のただ中の都の光景は、ややもすると私の目に浮かんで来て、優しい伯母かなんぞのように心をひきつける。一年なり、二年なり、いつかは行って住んで見たいように思う。
 
 
 
 
 
 

  底本:石川啄木作品集 第三巻
    昭和出版社
    1970(昭和45)年11月20日発行
 

  入力:Nana ohbe
  校正:林 幸雄
  2003年10月23日作成

  編集:新谷保人
  2003年12月31日公開

 
 
 
※ 新字・新かなに直したほか、「徐々(そろ/\)」「奈何(どう)せ」などは「そろそろ」「どうせ」といった表記に替えました。また、ルビを打って「土地(ところ)」「中央(ただなか)」などと特殊な読み方をしている言葉も、単純な「ところ」「ただ中」という読みに直してあります。