南斜花壇
 
富手 一
 
 
 
 賢治先生御苦心の設計が出来ていよいよ南斜花壇が造られることになり、お忙しい中を花巻温泉に来られました。まだ農学校の先生でしたからきっと土曜か日曜だったでしょう。
 農学校の実習服を着て大きい麦から帽子をかぶって、丁度農学校の実習の時の様に自ら鍬をとって順序よく仕事を進められるのでした。
 松の林をバックにした南向のゆるやかな斜面約一反歩位きれいに整地が出来ました。四月の下旬でした。さんさんと降り注ぐ春の陽を受けた黒土からはかげろうがゆれて居ました。先生は「一服するベナス」と土に腰を下して南の地平線をジッと見つめて居られました。
 小高いこの斜面から見下すと、広々とした北上平野のかすむ向うに地平線がきれいに望まれるのです。私も先生と並んで腰かけて一休みしましたが、先生に「きれいだナス」と言われて始めてこの地平線の美しさに恍こつとしたのでした。美しいものは身近にたくさんあることをしみじみ知ったのでした。やがて腰を上げると「ここをこうやって」と次々に指示されるままに私は動き、先生がテキパキと進め我を忘れてかけ巡るのでした。蔓草の茎を形どった通路が無造作に見える先生の線の引き方にもかかわらず、実に自然に、生きて居る形に出来る。実(み)の形の円の花壇が次々に出来上る。芝生になる分にはローングラスの種子が手早に蒔付けされる。たちまち模様が出来て、草も木もない黒い土一色だが先生の画いた花模様が素晴らしくきれいで、若かった私には本当に夢の様で、今でも忘れぬ思い出です。当時温泉係長をして居られた高橋儀逸さんがすっかり喜んで何か御馳走したいと言われたのですが、先生はいつもの通りほほ笑み乍ら固辞されるのでした。其後先生の設計によって花の苗を作ったのですが、いつも念のため先生のお家に予備の苗がチャンと育ってあったのです。私が御相談に上ると早速いい苗を下さったものです。五月の末でした。たくさん苗を準備し、先生も来られて、それぞれの形の所に花の苗を植えることになりました。丁度小雨の降る日でした。例のツバ広の帽子をかぶった先生が植付を始めるととても早い早い、私はただ感心させられたものです。勿論先生の頭の中にはチャンと設計図が書かれていて、それぞれの花がきれいに咲いていたに違いありません。初夏の山々が美しく、先生と一緒に見て居るとひとしお美しさが感ぜられるのでした。またたく間に移植が終って、先生は雨具のマントを着、帽子をかぶったまま駅の方へ飄々と歩いて行かれるのです。私は事務所へ報告に行きましたが、少し経って宮沢先生を巡査がつれて行ったと知らせた人があり、あわてて駐在所へかけつけました。あの大きい帽子と風の又三郎を思い出させるすそ長いマントが珍らしく、巡査が先生とも知らないで引き立てて行ったのも無理もないかも知れませんが、私がかけつけた頃、先生と判って具合悪くなった警官が一人でブリブリして居たのでした。私は笑うにも笑えない思いでしたし先生はいつもの通りニコやかにほほ笑んで居られたのです。
 其の後それぞれの形に、それはそれは見事に花は咲き蔓草はくっきり画き出されて、みんなを喜ばせました。芝生は春も夏も秋もいい憩い場所でした。病床につかれる様になってからも何度色々と御聞きしに上ったことやら面倒なことがあれば直ぐ御目にかかって教えて頂いたものですが、いつも快く御会い下さってつい一回も嫌な顔をされたことはありませんでした。先生がいつも笑顔で会って下さるので御亡くなりになるなぞ考えられませんでしたし、先生の御葬列に自分の作った生花の花環を捧げて参列しても、尚先生を死の旅にお送りする様な気持にはなれませんでした。蔓ものの大きい籠に赤青の電灯をともすことなどの設計の一部は出来ませんでしたが、長い間温泉を訪れる人々に親しまれましたし、今でもあの場所は先生の設計に一番力を籠められた所だけに私にはあそこに行けば先生にお会い出来る様な気がするのです。
 身近かな所から美しいものを見出して、むしょうに嬉しくなったり、判らない事があって困った時、先生を思い出してソッと教えて頂いたりする時、「やっぱり先生は生きて居られる」と思われてなりません。
 
 
 

 底本:校本宮沢賢治全集 資料第1
    宮沢賢治研究1 草野心平編
    筑摩書房
    1958(昭和33)年8月15日初版
    1983(昭和58)年10月1日愛蔵版

 

  入力:新谷保人
  2003年10月10日公開