郷土の伝説(死んでからの魂の生活)
違星 北斗
 
 
 海の幸、山の幸に恵まれて何の不安もなく、楽しい生活を営んで居た原始時代は、本当に仕合せなものでありました。
 ヨイチコタン(余市村)は其の頃、北海道でも有名なポロコタン(大きな村)でした。此の楽園にも等しいヨイチコタンに、淋しい淋しい思で日を暮して居る、たった一人の若い男がありました。
 或日の事、何かお魚を捕ろうとして、シリバの沖へやって来ました。
 
 
 陸の方に一人の女が余念もなく昆布や海苔を取って居ます。これはどうも見覚えのある様な姿です。
 「似た人もあるものだなあ!」とひとり呟きながら、思わず知らず磯辺近くへ舟を寄せて行きます。見れば見るほど似て居ます。おやっと思いながら、尚も近づけばそっくり其のまゝ、否、全く其の人なのです。
 「あっ!」と奇声を放って棒立ちになりました。それもその筈、あの日頃の思い出の種、死んだ最愛の妻が、寝ても覚めても忘れ得ない其の妻が……夢か現か知らねども、其処に居るので吃驚しました。彼は疑う事も忘れて、「おゝ、お前は!」悦びの余り、自分の乗舟も打ち捨てゝ、陸の方へ躍り上りました。
 「あれっ!」と驚きの声を立て女は真青になって、昆布も海苔も投げ捨てて、一目散に逃げ出しました。泣きながら逃げて行きます。大つぶ石の多いシリバの渚を、妻はとても早く走って行きます。のめくりつまくり追い縋り、「おい、おゝい待ってくれ。何故あなたは逃げるのです?」
 併し、必死の勢で走り行く女には追い付かれないのでした。そればかりでなく彼女はシリバの洞窟の中にかけ込んで了いました。
 彼も無我夢中で続いて飛び込んで、奥へ奥へ通って行きます。暗くはあるし嶮しくはあるし却々容易ではありません。兎にも角にも一生懸命進みに進みますと、やがて薄明くなり、次第に明くなって、別の世界に出ました。見まわすと、其処にはアイヌチセ(アイヌ家屋)も建ち並んで居ます。明白に此処はコタンです。尚も不思議な事には、此の中には知った人が沢山居ます。そして其の悉くが死んで了った筈の人達ばかりです。
 彼女は泣き喚きながら、とある家に入りました。よし、此の家だなと近寄りますと、恐しい二匹の白犬が彼に向って牙を剥いて、今にも喰いつきそうです。怖くて怖くて仕方がありません。併し折角此処まで来て会わずに帰ってよかろうかと、犬に吠え立てられながらもやっとの思で、戸口に近寄り無理にも中へ入ろうとしました。さあ、家の中では大騒動です。
 「怖い!怖い! 生きた人間が来た。決して家の中に入れてはならない。」と、堅く締切ってどうしても戸が開きません。そればかりでなく、此の家の人々は恐怖の余り、彼を目がけて灰を浴せかけ、果てはイケマ(草の根、独特の呪)を吹きかけるのです。これには堪りません。併し、折角此処まで来たものを何とかして家の中へ入りたいものだと、表へ廻り裏へ廻りして居ます。そしてカムイプヤリ(神窓)に立った時、エカシ(翁)の声厳かに、「お前は何たる不届者じゃ。此処を何処と心得て居るか。此処は黄泉の国じゃぞ。生きた者の来る処ではない。死んだ人々が此の地に来て矢張生活するのじゃ。生きた人間が決して/\来るべき処ではないぞ。帰りなさい。さあ、早く帰れ。それがお前の為だ。と、さんざんに叱られて、よんどころなく引き返す事になりました。落胆と失望の彼はやっともと来た道を辿ってコタンに帰り、此の事の次第を人々に語りました。其の後間も無く病気になって儚く死んで了いました。
 
 
 人間は死にますけれども霊魂は不滅であります。シリバの洞窟から彼の世へ行きます。そして其処で我々同様に生活します。それから我々が死人を気味悪く感じ、幽霊を怖がる様に、彼の世の人々は現世の生きて居る人々を恐れるのです……と。
 
 
 今はシリバの洞窟も石が崩れて埋れて居ますが、之をアイヌはオマンルバラ(死んでから行く道)と云って居ます。神秘の洞窟オマンルバラは今でもシャモ(内地人)もアイヌも畏れ尊んで居ます。間違にでも此の前で小便でもしようものなら、神様からお叱りを受けて、山から石が不意に落ちて来ると信じられて居ます。
 嗚呼、シリバの洞窟、アイヌ衰滅と共に、幾多の伝説も語る人なく、之と運命を同じくして、遂には消失するのでありましょうか。
 渚に打ち寄せては砕ける濤ばかりは、永劫変る事なく、昔を今にくりかえして居ます。
 鰊の余市は伝説の余市です。海から突立って居る断崖絶壁中、北海道第一の称あるシリバ山は、悠久なる日本海を前にして、其の男性的な勇姿を神秘をこめる潮風に曝して居ます。
 
 
 
 
 

   底本:北海道文学全集 第11巻
    立風書房
    1980(昭和55)年11月10日初版

 

  入力:新谷保人
  2003年9月10日公開