フゴッペ古代文字
違星北斗の見ていた
 
新谷 保人
《Northern songs 2004年5月号》
 
 
………4月号〜5月号と連載してきました違星北斗の『疑うべきフゴッペの遺跡』、日本初の青空化がここに無事終了いたしました。テキスト・データ化することによって、これで、誰もが違星北斗の作品を簡単にダウンロードできるようになります。自分の作品に引用したり、自分の撮った画像とコラボレーションしたりと、いろんな可能性が広がってきますね。
 
………私は、違星北斗の言葉やリズムは宮沢賢治の日本語と同じくらい美しい日本語なのではないかと思っているのです。同じくらい画期的な日本語だとも。そういう北斗の埋もれた才能が世に花開くのならば、こんなに嬉しいことはないです。
 
………エカシシロシの文字は私が画像データに写しとって作りました。テキストに使ったのは『北海道文学全集』の第11巻です。形の美しさでは『遺稿集コタン』のエカシシロシの方が断然美しいと思うのですが、ちょっと線が細いのでホームページ向きではない。それで、『北海道文学全集』の方を採用しました。原版(遺稿集コタン)のエカシシロシはこんな感じです。それぞれのエカシシロシが、自分にふさわしい大きさをのびのび自由にとっていて、私はこちらの方が好きなんですけど。
 
………『疑うべきフゴッペの遺跡』の青空化に伴い、少しだけ、その「フゴッペ洞窟」について解説しておきたいと思います。というのは、違星北斗がこの『疑うべきフゴッペの遺跡』で論じている「フゴッペ洞窟」というのは、現在の私たちが知っている「フゴッペ洞窟」ではないからなんです。
 
 
 
………こちらが現在の「フゴッペ洞窟(博物館)」ですね。刻画のある洞窟遺跡をピターッとカバーするように建物が建っている。この建物の後ろの小山を「フゴッペ丸山」といいます。昔はもう少し大きく連なった丘陵だったのですが、明治35年の函館本線の鉄道敷設工事で、写真左側の箇所がズバーッと切り開かれてしまったので、この小さな小山(岩?)だけがポツンと孤立して残ってしまいました。
 
………これが左側です。こんな感じで丘陵のど真ん中を切り開いてしまいました。
 
 
 
………この取り残された小山の中腹の岩穴から、海水浴キャンプに来ていた札幌の中学生が小さな土器片を発見したのが昭和25年夏。土砂に埋まった岩穴を発掘して行くと、そこには約800点にも及ぶ刻画が散りばめられた洞窟世界が出現したのでした。これが現在私たちが「フゴッペ洞窟」として知っている遺跡です。
 
………ただ、何故この中学生は(海水浴に夢中にならないで)山の方に行ったのでしょう。それは、この少年が考古学に興味を持っている少年であったことも大きな理由ですが、それとは別に、ここにはすでに「フゴッペ遺跡」があったのです。この中学生は、キャンプの出発前に、すでに兄から「忍路(おしょろ)へ行ったら近くの忍路・西崎山のストーンサークルとフゴッペ古代文字遺跡を見学してはどうか」とアドバイスを受けていたのでした。つまり、「フゴッペ古代文字遺跡」というものがすでにあったのです。
 
………違星北斗が『疑うべきフゴッペの遺跡』で言っている「フゴッペの遺跡」とは、この遺跡のことです。それは、上の写真でいえば、切り開かれた斜面に草が生い茂っている箇所がありますが、そんなところにありました。この旧フゴッペ洞窟(古代文字)が発見されたのは昭和2年の10月。
 
去る十月八日、国鉄蘭島保線区の宮本義明氏は、フゴッペ川より余市方面へ三町ほどの丸山下の崖脚で土砂の採掘作業をしていた。採掘土砂を鉄道線路床両側の泥地に盛上するためである。丸山の凝灰岩と集?岩が層をなし土で覆られている地点から十五尺も掘り下げると、偶然にも岸壁の凹所に古代文字様のものと人面などを発見した。(小樽新聞 昭和2年11月14日)
 
………昭和2年10月、この国鉄保線夫・宮本義明氏の発見は、小樽高商(現在の小樽商科大学)西田教授の知るところとなります。そして、さっそく西田先生の発掘報告が翌月の11月15日の小樽新聞にて始められます。
 
古代文字は北海道の先住民族の作。手宮古代文字と同一民族ではない。文章をなさず、後代へ伝えるための記号でアイヌのイカシシロシと共通か。顔面彫刻は蝦夷族を表徴し、洞窟周辺は古代蝦夷族の屈葬のよる墓地。彫刻は貴重なものである、史跡名勝記念物として完全なる保存を切に乞う。(小樽新聞 昭和2年11月15日)
 
コロボクルは蝦夷族自身の先住系人種であり、その根源は大陸か。フゴッペ古代文字は神代古代文字の日文で古代アシリア楔形文字に共通の要素あり。(小樽新聞 昭和2年12月2日)
 
………西田先生も相当にぶっとんでますね。「手宮古代文字と同一民族ではない」ってかー(笑)
 
………もうお判りと思いますが、違星北斗の『疑うべきフゴッペの遺跡』とは、つまりは、この西田教授の解釈に対する、現役のアイヌ民族からの反証なのです。西田側からの「アイヌのイカシシロシと共通か」などの挑発も多々あり、これ以上、アイヌの見解抜きで和人たちの論議が展開されて行くのを違星北斗はよしとしなかったのでしょう。
 
………『疑うべきフゴッペの遺跡』の章立てを見て行くと、違星北斗が西田説のひとつひとつに(門外漢ながら)考えに考えて(かつアイヌのアイデンティティを失わないようにしながら)ものを言っているのが痛々しくわかります。
 
………古代文字説がほぼ否定されている現在から見ると、西田先生対違星北斗の論争も、今となってはどっちもどっち…としか言いようがない。学術的にはゼロでしょう。(特に、どちらの論文も、遺跡の学術保存のための何の力にもならなかったことが致命的に思えます。)
 
………けれど、私は、『疑うべきフゴッペの遺跡』には(たとえ学術的価値がなくなったとしても)もっと別の価値があるのではないかと思っています。それは、これを、違星北斗の文学的作品として読んだ場合。そこにはまだ、アイヌ民族のスピリットというか、アイヌの人たちのものの考え方、世界観を世に伝えるという使命が残っているのではないかと思えるのです。
 
………あるいは、これは違星北斗本人が意図していたこととはちがう結果なのかもしれませんが。ただ、こういうことは文学の世界では往々にして起こることです。化学的土壌改革を通じて岩手の農民の生活向上を願った宮沢賢治も、実際の現実の成果といったものは微々たるものでした。では、それをもって宮沢賢治の人生は無益なものだったのかといえば、そんなことはないわけでしょう。彼が真剣に考えた理想の「農民」は、彼の作品の中で見事にイーハトーヴとなって花開き実体化を果たしたのですから。たぶん、違星北斗にも同じことが起こると私は思っています。彼の作品の「ことば」の輝きや感触がそういうことを私に感じさせるのです。とても美しい日本語です。特に、「日本」の漢文脈の流れから完全に断ち切れて、歌が本来持っていたはずの口承の力が復元している様には感動します。
 
………あの札幌の中学生は、昭和25年夏、この「古代文字」遺跡を見に来たわけです。(その帰り道、そこから12メートル離れた崖の中腹に現在の「フゴッペ洞窟」を見つけるのですが…) その頃、この遺跡はどんな状態だったのでしょうか?
 
 近くに住んでいた人達から、旧フゴッペ洞窟の当時の状況を思い出し語っていただいた。
 
(1)私が八才か九才の頃からの記憶です(昭和六年〜七年)。あの頃の丸山周辺は子供達の遊び場で通学道路でもあった。線路脇に小さな洞窟があり子供達は自由に洞窟の壁に近づくことは出来たが、かたわらの人の顔形をして立っている石の方に興味があり顔を撫で撫でしたり仲間のように話しかけたり、学校の行き帰りのときは挨拶代わりのように頭を撫でていた。昭和八〜九年になると洞窟の周りが塀で囲まれ中に入れなくなり、頭を撫でられなくなったが目鼻の形が薄く変わり、とても人の顔とは思えなかった。塀の作りは縦二本の線路枕木様の木材を柱に全体に金網が張られ、足場にも枕木様の木材が二段ほどの高さに敷かれていた。(匿名希望の女性から)
 
(2)丸山前の道は通学路であったが焼場へ通ずる道でもあり、夕暮れや薄暗いときは気味悪く怖い思いがある。丸山の彫刻を知るようになったのは小学三年か四年生(昭和十二から十三年)の頃で、毎日彫刻の前を通学していたので、彫刻は特別珍しいか不思議なものとは思っていなかった。洞窟を囲むように金網が張られていたが簡単に剥(はが)して洞窟の中に出入りができるので、釘のような物でいたずらする者がいた。人面のような石があったそうだがその記憶はない。(小樽市・小柄義照氏談)
 
………「顔を撫で撫でしたり仲間のように話しかけたり…」。そうですか。地元のマスコット・アイドルだったんですね。キュリー夫人は白衣のポケットにラジウム石を入れて平気で研究所内を歩いていたという話ですけど、なんかそれに匹敵するような話ではあります。
 
………引用は『余市文芸』第27号(余市町文化協会,2002年発行)に発表された川端有氏の評論『フゴッペ丸山に情熱を傾注した人々』によります。今回の文章はほとんどこの評論からの孫引きです。小樽新聞の引用部分もこちらからの孫引き。現物の小樽新聞で確認しているわけではないのでご注意ください。(つねづね、違星北斗の『フゴッペ』を青空化するのなら、当然、小樽新聞に連載された西田教授の「フゴッペ」説も青空化しなければならないとは思っているのですが、なかなか時間の余裕がなくて果たせないままになっています。)
 
 
余市水産博物館の違星北斗碑