スワン社HP Northern songs 2003年11月15日号

 
 
バルセロナ動物園で
 
新谷 保人
 
 
 
1.小樽の特定失踪者

 ついに「小樽」からも北朝鮮拉致の可能性が高い特定失踪者が出た。9月25日に発表された第5次「特定失踪者リスト」に、北海道小樽市の「吉田信夫」さんの名前が見える。
 

失踪者第5次リスト(ゼロ番台リスト)より
このリストは拉致の可能性の高いケースのリスト(「1000番台リスト」)とは別のものです。今後「1000番台リスト」に入れるものもあるかも知れませんが、現時点ではあくまで「拉致の可能性を完全には排除できない失踪者のリスト」ですので取扱いには十分ご留意下さい。

失踪者氏名 読み方 当時の居住地 当時の職業等 不明になった場所 失踪の状況 本人の特徴 生年月日 失踪時期
吉田信夫 (男) よしだ のぶお 北海道小樽市 会社員 札幌市の会社を退社後 手稲の工場を退社後行方不明。汽車通勤だったので転勤後間も無いため前の勤務先である小樽工場に立ち寄った可能性がある。 160センチ弱、55キロ強、酒は飲む。タバコは吸わない。右目の視力が弱く多少斜視 19350830 19650525


 小樽市は海上保安庁第一管区のお膝元でもあり、道警本部のある札幌に隣接していることなどから、従来はあまり北朝鮮による拉致が考えにくい土地柄とされていた。拉致が行われるとすれば、同じ日本海側でも、第1次リストに出ている斉藤裕さん(注1)の「稚内市」のように、札幌を遠く離れた場所で行われているのではないかと考えられていたものだ。

 しかし、現実には、横田めぐみさんの「新潟市」のように、管区本部や県警本部のある大都市でだって拉致は公然と行われている。また、金正日体制になった1970年代から日本人拉致が始まったわけではない(寺越さんや久米さんなどのケースが異例でも何でもない)ことは、この180名を越える特定失踪者リストが雄弁に物語っている。このリストの登場によって、私たちは様々な角度から今までの「日本人拉致」概念を改変しなければならなくなったのである。

 改変、その1。拉致は金日成が政権についた時代から、いわばこの政権の持って生まれた「体質」として行われてきたこと。そもそも「金日成」自身が、背乗り・なりすましの張本人であった。ソ連領に逃げ込んだパルチザンの若造キム・ソンジュが、民族の英雄「金日成」将軍になりすまして北朝鮮に戻ってきたのは1945年10月14日。拉致はもうこの日から始まったのである。だから、例えば1960年代日本の「祖国帰国」運動だって、構造は、有本恵子さん拉致のケースと変わらない。巨大な「拉致」である。当時の在日朝鮮人を「同胞」「祖国」というペテンで引っ張って、朝鮮戦争によって失った労働力人口の穴埋めに使う…という発想はよど号の連中と全く同じ。(それほど、よど号の連中が立派に教育された…ということだが) この親子にとっては、無いもの、欲しいものは他から騙してかっぱらってくる(でなけりゃ、乞食同様めぐんでもらう)のが本性なのだ。それ以上の経済をついに持てなかった、世界最後の「馬賊」である。

 改変、その2。日本人拉致に関する日本側の「関与」について。北朝鮮拉致問題が顕わになった李恩恵〜横田めぐみ報道の1990年代以降も、かまうことなく21世紀に到るまで拉致が続けられていたことには特に激しい怒りを感じている。特定失踪者リストの最後の人は、なんと「2002年」なのだ!この最悪の事態を招いた、政治家・学者・マスコミからレインボーブリッヂみたいなお笑い左翼に到るまでの全ての愚か者たちには必ず罪を償ってもらうつもりだが、今ここで書きたいのはその「関与」のことではない。もっと具体的な「日本側関与」のことだ。

 「地村さん、浜本さんを拉致したのは、この李を中心とするグループでした。6ヶ月もの間、尾行し、地村さんたちの行動を把握した上で、二人を拉致したのです。拉致する時は、袋をかぶせ、身柄を拘束する工作員がそれぞれに二人つき、洋上の工作船に一気に連行する工作員が、それぞれ4名従事します。だから、地村さんら二人に対しては、それぞれ6名、都合12名もの工作員がかかわったことになります。当時、この二人を含め、拉致対象者としてピックアップした候補者は、北陸3県で30名ほどいました」
(『週刊新潮』2003年2月6日号 「日本にいた!<地村さん夫妻>を拉致した男」より)

 偶然で、日本人を拉致することなどありえない。偶然で180名もの日本人を拉致できるわけがないのだ。全ての拉致について何らかの日本側からのリサーチ活動があったであろうことは明らかであると思える。今はわからないだけで、横田めぐみさんが「バドミントン部」の中学生だったこと、父親が「日銀・新潟支店」に勤めていたことなど、必ずそれらには何らかの「符丁」があったのだと私は考える。

 自分たちのほうにしだいに近づいてくる男を見ながら、道を聞かれたらどうしようかと緊張していたが、表向き平然としているしかなかった。ところが彼ら(注:侵入組工作員たち)のもとへ真っすぐ接近してきた男は「頼まれた電気製品を配達してきました」と言ったという。
 そして男がサインしてくれるよう差し出した領収証には、自分たちが拉致する対象であるという符丁があったという。おそらく日本で活動している工作員から、拉致の対象としてリストアップされていたようだ。
 何も知らずに電気製品を配達しに来た彼には気の毒だったが、与えられた任務だから、彼らはそのまま従わざるを得なかった。その後、オートバイの処理に悩んだ侵入組は、大変な思いをして土を掘って埋めたという。
(安明進『北朝鮮拉致工作員』より「オートバイで配達中に拉致された北海道の男性」)

 日本側からの関与があれば、札幌や東京のような都市部のど真ん中であっても拉致はいくらでも可能だということだ。その点で、第5次リストには、もうひとり「小樽」関係ではないか…と思われる人がいる。東京都で失踪した「石川千佳子」さん。
 

失踪者第5次リスト(ゼロ番台リスト)より
失踪者氏名 読み方 当時の居住地 当時の職業等 不明になった場所 失踪の状況 本人の特徴 生年月日 失踪時期
石川千佳子(注4) (女) いしかわ ちかこ 東京都足立区 小学校教諭 東京都足立区の勤務先小学校を出て失踪 “8月15日頃、小樽の弟のところへ中川小学校校長から当直なのに出勤していないが帰っているのかと電話があり所在不明がわかる。7月29日〜8月12日の日間東京都教職員生協主催の東西ヨーロッパ研修旅行から帰って2日目。自分から失踪したとは思えない。アパートの部屋もお金もそのまま。手帳にも8月いっぱいの予定が書いてあった。” 162センチ、51キロ、コンタクトレンズ、絵を描くのが好き、冬はスキーもする 19490704 19780814


 ちなみに、石川さんが失踪した「1978年」は、こんな年である。

 1977年5月14日に、金日成が日本革命村に来ました。
 その時、彼が「よど号」グループにした指示は、五・一四教示と呼ばれています。そして、その年の12月末頃、「よど号」グループは総会を開き、その席で、リーダーの田宮高麿から、日本革命に関する五・一四教示の具体的な内容が明らかにされました。
 「日本で、金日成主義に基づく革命を行うためには革命党の創建が必要であり、党の周辺に金日成主義の影響を受けた勢力を置くことが大事だ。そのためには、自分たちの政治運動の中核として活動する日本人を海外で獲得することが当面の課題となる」
(八尾恵『謝罪します』より「ヨーロッパ拉致疑惑事件」)

 石岡さんと松木さんがヨーロッパで拉致されるのが1980年。よど号の妻たちまでもが日本人獲得(拉致)のためにヨーロッパに駆り出され、拉致が本格化して行く、その少し前の時期。だから、1978〜1979年は、田宮をはじめとする男たちがヨーロッパ発を装って「反核運動」を日本に向かって盛んに仕掛けていた頃であった。当時、日本で真に受けて「ダイ・イン」などをやっていた人間たちの中には、あるいは、こうした日本人拉致の片棒を知らずに担いだ人間もいたのではないかと推測する。
 
 
2.バルセロナ動物園で
 

HP、拝見しました。突然のメールで失礼致します。
さて、私、ここ数年の北朝鮮情勢に大変興味を持っております。その中でも、石岡さんや松木さんをろう絡し、北朝鮮へ連れ去ったよど号グループに対して、なんともやりきれない気持ちです。
HP上では、「バルセロナ動物園で撮影した写真を眺めながら書いています」との記述がありましたが、もし、その写真をお持ちであれば、メールで送っていくことは可能でしょうか。
テレビで写真を見る機会はあるのですが、雑誌や、書籍ですと、顔に線が入ったものしかありません。
まことに勝手なお願いですが、何卒よろしくお願い致します。  (○○)

 
 長らく「影とのたたかい」をサボっていたことをお詫びしたい。
 先日、スワン社ホームページを見た方から上のようなメールをいただきました。
 あれこれ自分の事情を言いつのれば、なにかしら他人がそれを理解してくれるかの如き甘えに陥っていた自分を反省しています。さっそく下のような返事を書かせていただきました。ホームページの方も、単に「影とのたたかい」再開にとどまらず、ひとりでもホームページを見てくれる人がいる限りは「Northern songs」全体の再開を果たして行くつもりです。本を読まなくなったら私は終わりでした。
 

○○様
手近なところでは、ハードカバーの高沢皓司『宿命』(新潮社,1998年刊)
(注2)などに写真が載っています。バルセロナ動物園で撮影されたものは207p。『女たちのピョンヤン』(三一新書)出版時に撮影された妻たちの集合写真が143pに。文庫版が出たので、ハードカバーは書店ではもう手に入らないと思いますが、図書館や古本屋に行けばまだあると思います。文庫版は持っていないので写真がどのように処理されているのか確認できません。ちなみに、ハードカバーは(1998年当時の状況を反映して)よど号側が素顔で、かえって石岡さんの方が目隠し・「Iさん」になっています。 (新谷)

 
3.もう一度だけ、海岸へ 2003 (注3)

 今年の1月以降、帰国から1年めの10月15日までの間に出版された「拉致問題」関係の本や雑誌(+テレビ番組)で重要なもののリストを作成しました。すべての図書に目を通すことはできませんが、今の内に図書館蔵書にしておいた方がよいと思うものをあげました。
 
4.金正日体制の解体へ

 11月9日、田中真紀子、衆議院選挙・新潟六区で当選…

 横田めぐみさんを始め、蓮池夫妻、曾我ミヨシ、ひとみさん親子など、多数の拉致被害者を出している新潟県民が、なぜ、こんな愚か者を選ぶのか、とても不思議だ。二年前の外務大臣就任時、密入国の金正男を慌てふためいて送り返した時から何にも反省していない。
 

拉致被害者:田中前外相に抗議 「子供は北朝鮮国籍」発言で
(毎日新聞2003年11月2日より一部引用)
 田中前外相は演説の中で「あの方(拉致被害者)たちは日本人ですが、子供さんたちの国籍はどこですか。北朝鮮なんじゃないんですか」「外務省だって分かっているんでしょ。あれ(帰国)は難しいということをはっきり言わないとだめですよ」などと述べ、政府や外務省の対応を批判した。
 国籍法は「父か母が日本人である時は、子供は日本国籍を持つ」と定めている。
 両会は「外相の要職を務めながら基本的知識さえ持ち合わせていない。北朝鮮の人権侵害を弁護した重大な背信行為だ」と非難し、取り消しや謝罪を求めている。

 
 強制収容所に入れられていた人だって、帰国運動で騙されて連れて行かれた日本人妻だって「脱北」してくる世の中だ。いつか、拉致された日本人だって、自力で「脱北」して日本に帰ってくることだろう。その日はきっと来る。その人たちに裁かれればよいと思う。

 こんな馬鹿にかまってはいられない。今、180人の日本人を取り返すのに必要なものは、金正日体制の解体と金正日の具体的な除去だけである。
 
 

(注1) ■失踪者第1次リスト 斉藤 裕(ひろし)さん
失踪時期 1968(昭和43)年 12月1日夜8〜9時頃 失踪当時の年齢 18歳 失踪場所 北海道稚内市内 失踪当時の身分 高校3年生 失踪当時の状況 友人宅を訪ねた帰りに、浜の方へ行くと言ったきり消息を絶つ。当日気温+8度、晴天、積雪0,風5・。就職も決まっていた。

(注2) 文庫版にも、同じ図版あり。

(注3) 別ファイルへ移します。→「もう一度だけ、海岸へ 2003」

(注4) 石川千佳子さんは、当時の勤務先である東京都足立区の小学校にて、同校の用務員だった男によって殺害されていたことが判明。なお、刑事事件としては男の時効が成立しているため、小樽の遺族は民事で係争中。→電脳補完録「26年前の事件で出頭 被害者は特定失踪者」