小樽に残る田上ハウスB
旧上田邸・旧瀬川邸
 
Northern songs 2002年5月19日号
新谷保人
 
 
 小樽に残っている田上ハウスを探すには、基本的には、第1回で紹介したテキスト『小樽の歴史的建造物』をベースに使っているのですが、すっかり「旧上田邸」を見落としてしまいました。
 
 「ろいず珈琲館(旧小熊邸)」のパンフレットには「小樽/現存する」表示になっている「旧上田邸」。でも、『小樽の歴史的建造物』には見あたらない。どうしても「旧高田邸」「坂牛邸」「坂邸」の3件しかない…、歴史的建造物の指定を受けていないのだろうか?とか、けっこう煩悶しました。で、ようやくのことで「旧上田邸」を発見したわけです。なんと!「坂牛邸」の隣の建物が「旧上田邸」だったのですね。「設計:田上義也」が重なっているので、私は、同じ建物、「坂牛邸」の母屋と離れくらいに勘違いしていたのです。別々の建物だったのね…
 「旧瀬川邸」の方は、「ろいず」パンフレットでも「小樽/現存しない」ですし、『小樽の歴史的建造物』にも全然記載はありませんでした。これは、後述する『田上義也と札幌モダン』という本から得た情報を基に、実際に銭函の見晴町を歩いて探しました。家の所有者が変わっているようですし、今も現役の人が住んでいる民家でもありますし、なにか、こういう「文化財」的な扱いを迷惑がっているのかもしれません。
 以前、「坂牛邸」がNHKの取材を受けた時に、こういう一般のミーハーの見物がけっこう煩わしいので、1回だけテレビの取材に応じるけれど後は応じない… 一般の人も、普段の私たちの日常生活のプライバシーは尊重してほしい…というようなことを語っていたことを思い出します。ほんとにそうですね。「ろいず」みたいに皆に公開されている所以外は、やっぱり敷地内に片足でも入っちゃいけないと私も思います。(厳密に言えば、このデジカメ写真もまずいのかもしれないけれど、このくらいは大目に見てください。小樽の運河や草花を写す時と同じ、公道から誰にも見えているような風景を撮った写真ばかりです。人の敷地に無断で入ったことなど一度もありません。「おたるの図書館」ホームページ以外の使用もありえませんので、なにとぞご勘弁願いたい。)
 
 小樽に残る田上ハウスを探す旅、一応、この2002年4〜5月の現時点では、「旧高田邸」「坂牛邸」「旧上田邸」「旧瀬川邸」「坂邸」の5件が小樽に現存する田上作品のすべてとしておきます。しかし、「旧瀬川邸」のように、「歴史的建造物」の指定を受けなくとも小樽にちゃんと現存する田上作品というものは考えられうるところです。これ以後続ける情報収集によっては、あるいは、小樽に残る田上作品は増えるかもしれません。
 
 
 「旧上田邸」は、田上義也1928年の作品です。「坂牛邸」の主人、坂牛直太郎の未亡人・寿久の住宅として建てられました。
 
 
 そして、「坂牛邸〜旧上田邸」が隣りあって建っている写真が、こちらです。左手後ろに見えている緑の屋根が、第2回でご紹介した「坂牛邸」ですね。
 
 
 写真をご覧になると誰でも感じられるかと思いますが、「旧上田邸」って全然インパクトがありません。田上の作品だと言われないと見落としてしまいそう。これは、端的に言えば、「改造」されてしまったということです。隣りの「坂牛邸」が、75年の歳月を越えて、当時の外観・内装を守りながら住まわれているだけに、この2軒が並ぶとよけいにはっきり田上作品の美しさというものが際立つ結果となってしまいます。
 
 
 今年の4月に、北海道立近代美術館編集のミュージアム新書の一冊として『田上義也と札幌モダン』(北海道新聞社)という本が出版されました。図版が56ページも入っている、(お高い『田上義也建築画集』を買う金がない貧乏人にとっては)じつに「豪華」で便利な本です。で、そこで大発見。その本には、もう現存していないと思っていた田上義也1930年作品「旧瀬川邸」の写真が載っているんですね。現存している…しかも、小樽市見晴町! で、気がついたわけです。もしかしたら、あの家かもしれない…と。
 
 
 これは見晴(みはらし)町の「坂(ばん)邸」を撮影している時に、高台の坂邸からどのように小樽湾の海が見えているのかというロケーション説明のために撮った一枚です。坂邸から50メートルくらい場所を移していますが、その時、なにか画面下に映っている家が「田上っぽいなぁ…」と感じたのでした。
 
 大当たり! 「旧瀬川邸」でした。
 「旧瀬川邸」はかなりのお屋敷です。敷地が広くて、田上作品の家まで近づけない。しかも、途中には大きな木が植えてあって、道からは家が見えないようになっている。
 
 …というわけで、まことに申し訳ないけれど、皆様、『田上義也と札幌モダン』の24ページを開いてください。(笑) 家の前からちゃんと間近で見ると、こんなにも美しい白い家なのですよ。あの赤い屋根の下には、こんな形の良い田上ハウスが隠されていたのですね。
 高台に持ってきた「坂牛邸」…という感じかな。玄関の前に付けた石段がカッコいい。海を見降ろす高台なので、当然ながら「平屋」っぽくフラットに造るわけですね。(しかも「白」で!) 「坂邸」と同じで、その方がインパクトがあることを充分承知で田上義也は造っていると思います。つまり、下の国道5号線の庶民たちの目から見ると、それはまるっきり「丘の中腹の夢の家」そのものだったんじゃないでしょうか。一度でいいから、あんなお家に住んでみたい…、私もお姫様になりたい…と。
 
 
 なにかしら…、「旧小熊邸」の内部を見てしまったのを境に、眼が肥えてきたような気がしないでもない。(笑) 以前ならば、見るだけ、現存しているだけで有難がっていた田上作品なのだが、最近では、どうしても内部まで見てみたい作品と、とりあえず写真資料で確認できればそれでいいや…という作品とに二極分解して来たのを感じる。田上作品なら何から何まですばらしい!というわけではなく、1927年の神がかり的な作品群もあれば、やっぱり田上の才能をもってしても凡作というものもある…ということが自然にわかってきた。
 網走の「北見郷土館」ならば、いつか網走方面に行った時に見られればそれでいいだろう。でも、「北一条教会」の一般公開ならば、私は、もしかしたら仕事休んででも駆けつけるかもしれない。そんな風に幾分使い分けるようになってきた。
 
 
 札幌の「北一条教会」、いいですねぇ。特に「旧」の方の「北一条教会」。もしも、道立近代美術館で『田上義也展』をやるのならば、なにかバーチャルで田上作品の内部を再現してはくれないものだろうか…
 
 というようなことを考えるのは、最近、とあるホームページで(以前『海岸列車の女』でご紹介した「ふるさと大夕張」の掲示板です)ものすごく嬉しいサイトを発見したのですね。もう、ここのところ、毎晩のように通っています。(笑) それが、この『バーチャル列車で行こう!』。大夕張鉄道など、何往復したかわからないくらいです。
 いやー、世の中、すごいことになっているのね! 「この駅に降りてみる」なんて表示、私は、震える手でクリックしてますよ。ドキドキ、見知らぬ過去の町に降りて行く自分の姿に興奮していますよ。こんな感じで過去の世界に入って行けるなんて、いい時代に巡り会えたと思います。インターネットの時代まで生きながらえたことを、こういう時は素直に感謝したい気持ちになります。こんな感じで、田上の作品をぐるぐる巡れたら幸せなんだが。
 
 
 最後に、『田上義也と札幌モダン』の中で名前があがっている限りの「小樽に残る田上作品(現存セズ)」を列挙しておきます。
 
1925年 ■フナミヤ食堂 《小樽》
1925年 ■小林農場 《銭函》
1925年 ■観海荘 《銭函》
1926年 ■島野邸 《小樽》 ※ 設計監督:田上義也 建築:山谷豊二
1928年 ■桜田邸 《小樽》
1929年 ■水野邸 《銭函》
1930年 ■桜庭邸 《小樽》
 
 当時、「小樽」と「銭函」は別の町でした。田上たち、札幌人の感覚としても、「高田邸」を造るという場合ならば、それは「小樽」での仕事…という認識になると思いますが、「坂邸」などの場合は、施工依頼者も田上も、札幌人が札幌郊外に別荘を造る…という、「札幌」の仕事の認識だったのではないかと推測されます。むしろ、岩内町の1935年「仝(いりかせ)宇喜世」のような作品を、田上は「小樽(方面)の仕事」と認識していたかもしれません。
 
 
 
 
Northern songs 2002年5月19日号 後記
 
■今、短大図書館HPのリニューアルに関連して、新谷の過去の文章を整理しています。少しばかり「あらやINDEX館」の方のラインナップも変わるかもしれません。
 
■その余波みたいなものですが、前回の『Northern songs』2002年5月11日号の文章「小樽に残る田上ハウスB」の文章、書き直しました。先週、アップした後もなにか気に入らない。細かいところでミスも多いし。というわけで、書き直しです。そのついでに、「旧瀬川邸」などの部分を補記しておきました。これで、次回の最終回は「坂邸」一本で心おきなく行けます。(どうか、これ以上「新発見」情報が現れませんように…) <新谷>
 
 
 
 
Northern songs 2002年5月11日号 後記
 
■2002年5月9日の『北海道新聞』朝刊は、読むべき記事がいっぱいで大変だった。
 
■一応、最終面の「テレビ欄」から私は読み始めるんですけど。
NHK総合/深夜1:55〜『ビバリーヒルズ青春白書』(再)
今日はこれだけかな… ウエスト・ビバリー高校を卒業してしまって、大学生〜社会人と話が進んでくると、もう話が男女の好いた惚れたという話だけになってしまって(ほんと、大人になるって、悲しいことですね…)もう観るのも面倒くさくなってしまった『ビバヒル』。もう、撮り続けていたビデオも、『高校白書』だけありゃいいや…って感じで、どんどん消して他の録画にまわしてしまいましたけどね。でも、今、再々放送やっている完結間際のこのシリーズだけは、開始時から『ビバヒル』を観てきたファンには時々郷愁をそそるところがあるのです。ブランドンがいなくなる、ディランが帰って来る…という「まさか!」の展開もちゃんとあり、加えて、きちんと最終回へ持って行く筋立ては、さすがはこういうショー・ビズに長けているアメリカならではの腕前だと思います。こういう「ドラマ文法」がひとりひとりのアメリカ人の身体の中にICチップみたいに埋め込まれているのではないかと思うくらい、一糸乱れぬ登場人物の動きでドラマ結末へ雪崩込みます。この最終シリーズは突発的に面白い。
 
■そして、バサッとど真ん中を開いて「スポーツ欄」。
決定力低下 募る不安 FWガタガタ トルシエいらいら
サッカーW杯まで、あと22日。昨日の「対レアル・マドリッド戦」の記事が出ている。とは言っても、すでに昨日の朝のニュースで「1−0」で負けたことは知っていたわけで… 夜のテレビで、前半26分、ロベカルのその「1点」のシュートが決まってしまうと、なんか、とたんに観ている気力がなくなった。あっという間にソファで眠りこけてしまう。やっぱり、結果がわかっている試合を90分観ているのはつらいですね。調子の良さそうな森島の動きを見ていると「ここはモリシじゃなくて、宏太くんが立っているはずだったんだ…」とか、つい思っちゃうしなぁ。アレックス見ていると発作的に「エメルソンの馬鹿ぁ!(安売りしないで、もう一年コンサで頑張っていたら、君だってアレックスになれたのに…)」という想いがこみ上げてきたりもする。あんまり単純に「ニッポン!頑張れ!」という雰囲気ではないので、なかなか苦しい。これでコンサドーレがそこそこ勝っていれば、少しは気持ちにもゆとりがあるのだが… 今、絶不調なんですよ、コンサドーレ札幌。J1の最下位、第16位のチーム。
ナビスコ杯 磐田ときょう敵地で第2戦
西沢、盲腸なんだそうで。こういう時、中山って、張り切るんだよね。日本代表フォワード、西沢と同じくらいのガタイったら、もう中山しかいないもんな。弱いチーム相手に、あんまり頑張らないでくれ。
今野が口火、日本大勝 アジアユース
U−21でも山瀬先制弾
もう頼みの綱は若者だけです。(これは科学的な検証も何もなしの単なる私の独断なのですけれど)この時代からの「アンダー21」とか「アンダー18」の若者って、たぶん、かなりの確率で、きらっと光る才能とか賢い発想とかが出てくるのではないでしょうか。と、思うのには理由がある。なにか「内省力」みたいなものが、いつもの時代の若者よりは強めに出てくるからなんですね。どうして、強めなのか?それは、前の世代の馬鹿騒ぎを見なければならなかった分、その宴の後の「内省」がキツイからです。「ガングロ」だの「援助交際」だの、やっぱり私はこれを「バカだ」としか言いようがないわけで。そして、やってる本人たちは気がついていないだろうけれど、「バカだ…」と冷ややかな目で見ていたのは私たち大人の世代だけではなかったんですね。中学生や小学生だって見ていたんですよ。
 
■真ん中から、左にページをめくって行って「小樽・後志地方版」。
啄木のわび状 11日から公開 小樽文学館の企画展
文学館の企画展『啄木さんが、だいすきだ。』は4月27日から始まっています。啄木関係の本を集めた本棚があって、自由に手にとって閲覧できるのが良いですね。バロン吉本が「啄木伝」を描いていたなんて、知らなかったなぁ…発見が多いです。
 
■さらに左で「地方版/道央圏」。ここで、開いている紙面をパッと入れ替えて、「投書欄」。
歴史の針を戻す 多喜二写真外し  無職○○○○(札幌市・73歳)
4月22日夕刊で、市立小樽文学館が、今年1月末の紀宮さまの訪問時に、小林多喜二虐殺の写真を外していた−との記事を読み、今どきこんな時代錯誤が、と思った。 (中略)
権力が市民の歴史理解を妨げることは、国家や地域の文化度の問題が背後に潜んでいる。多喜二虐殺の写真から「歴史」を学ぶことは、人間にとって必要なことである。小樽市民はなぜ、文学館管理責任者に同写真を展示しない理由をたださないのか、また、市議会でも問題にしないのか、私には理解できない。
私も理解できない。自分だって、ただの裏返しの「権力」じゃないか… 「小樽市民」とやらをアジって「市議会」を動かして「文学館管理責任者」を外して、今度は、自分の信仰する「文化」理解を押しつけたいんだろう。「文学館管理責任者」(?)ウンヌンの件なんか、特高が、家族や親族縁者へ危害が及ぶことをチラつかせながら転向をせまるテクニックと何がちがうのか。それに、皇族が来るからビビって写真を外した…といった単細胞「階級闘争」ストーリィではないことは、もう「小樽文学舎」ホームページで微に入り細に入り説明されているのに、何故、この老人はそのホームページを見なくていいのだろう。北海道新聞の記事だけを後生大事に「証拠」とする根拠は何なのだろう。(そもそもが、小樽なんて札幌の隣町なんだから、直接「小樽文学館」に行って「管理責任者」とやらに直談判すればいいんじゃないのか。老人で、動く体力がないのなら電話だって充分なはずだ…) 「小樽市民」などといういい加減な概念を持ち出すのは止してもらいたい。それに、もうひとつ。老人特有の狡さだと思うけれど、この人は、故意に小樽文学館のことを「小林多喜二記念館」にすり替えている。すっ惚けながら、虐殺写真という名の「日の丸」を国威掲揚することを小樽市民や小樽文学館に強制している。
 
■右に一枚開いて「国際欄」。ここで、開いている面をパッと入れ替えて、「社会面」。
「助けて」母親絶叫 周辺人垣、車は抗議 領事館亡命失敗
対応の甘さ際立つ日本 独、米は干渉許さず
 
■最後に、出勤前に余った時間で「一面」熟読。
北朝鮮の亡命希望一家 日本領事館に駆け込み
中国当局が連れ去る 瀋陽 治外法権侵害を抗議
この9日の時点では、まだ、あの「中国警察に北朝鮮の母娘が連行される」ビデオ映像は発表されていない。(あの映像は10日の夕方のテレビ・ニュースあたりから出まわる。) この朝のニュースまでは、これらの写真数枚が発表されただけであった。だから、テレビ局によっては、まるでサッカー談議のように「身体が敷地に入っている」とか「入っていない」といった間抜けなコメントをしている局もあったのである。ほんとに、なさけない…しかし、それも今朝までの茶番だろう。
 
■この写真一枚は世界を変えるだろう。その昔、爆撃の村から裸でこちらに逃げまどってくる少女の写真が、世界中の人々の「ベトナム戦争」認識を変えたように、この母娘の一枚の写真も世界の人々の「北朝鮮」への認識を変えることだろう。「中国人」「日本人」への認識を変えることだろう。なぜなら、ここには、それぞれの国家権力がいちばん「見せたくないもの」が映っているから。そして、私たちはバカではない。私たちは、見たいものは見るのだ。見なければいけないものは、どんな手段を使ってでも最後は見るのだ。たとえ権力が私たちから隠し通そうとしても、見たいと私たちが意志した瞬間から、私たちの目を騙し通せるものなんか存在しない。それくらいには私も歴史を信じている。
 
■その昔、ぽつんと制服を着て立っている新潟の一中学生の写真は、私に何かの衝撃を与えてくれた。何故なんだ、どうしてなんだ…という想いが、私にたくさんの「北朝鮮」に関する本を読ませることになった。挫けそうになるホームページの勉強を続けさせた。人を動かす一枚の写真というのはそういうものだろう。私ならば、文学館が展示を取り替えたくらいのことに怒ったりはしない。(展示物を永久廃棄したわけでもあるまいし…) どうしても人に伝えなければ死んでも死にきれない…ということであるのなら、私は、たとえ73歳の老体だったとしても、その日から、ゼロから始めるだろう。電気屋に行ってパソコンとスキャナを買ってきてマニュアルを1頁から読み始めればいいだけの話だ。<新谷>