小樽に残る田上ハウス@
旧高田邸
 
Northern songs 2002年4月25日号
新谷保人
 
 
 梅と桜と辛夷と躑躅とチューリップとライラックとエゾエンゴサクがいっぺんに咲いている今週です。こんな小樽、見たのは初めて。で、先週までは、たしかに水芭蕉が咲いていたってんだから。もう、なんと言えばいいのでしょうね、こういうの… そんな中で、先週の土日から今週にかけて、じつは小樽市内の民家のデジカメ写真をあれこれ撮っていました。撮っている家は3軒。そこを、日を変えて、時々カメラで撮っているブキミなおじさんです。
 
 
 最初のポイントは富岡1丁目。小樽商科大学へ登ってゆく坂の途中で、くいっと住宅街の中へ入ります。写真に見えている尖塔は「富岡カトリック教会」の十字架ですね。観光写真なんかでは必ず前から写すのですが、こういう、背後からの、民家の屋根の間に見える「富岡教会」というのもなかなか風情があっていいでしょう。桜も咲いているし。後ろに見えるのは天狗山のすそ野。実際、小樽の建築物はこういう感じで街の生活の中にとけ込んでいるものが多く、観光写真から受ける、単体で堂々と聳え立っている…といった印象とはちょっと異なります。
 そして、これも大きな特徴なんだけれど、小樽は、「民家」側の中にも優れた小品が多いのですね。「民家」とか「商店」建築に、意外と金がかかっている建造物が多い。昔、札幌よりも大都会だった…というのはハッタリでもなんでもなく、その通り、庶民の側にけっこうな財力があったと考えて良いでしょう。その結果として今の小樽がある。
 ここのところご紹介を続けているホームページ「K's Photo Album」とか「Deep in Otaru」とかでも顕著ですけれど、「小樽」を人に伝える…という場合、小樽の人たちはごく自然に街の毎日の暮らしをそのまま撮りますね。それが絵になる…ということを無意識に知っているような気がする。自分ちの窓から見えるものを撮れば、それが「小樽」ってことを。道端のエゾエンゴサクを撮れば、それが「今日の小樽」だということを。
 この点、おらが町には○○がある!××を見てくれ!といった他の地方都市の頑張りとはかなり異なっています。この手の庶民のゆとり、スケールはちがうかもしれないけれど、じつは「東京」の住民の感覚に似ていないこともないな…と時々思うことがあるのです。(考え過ぎかな…) なにかしら、昔日、一生懸命蓄財に励んだような過去を持っている街に特有な「気風」ではないでしょうか。爺ちゃんか曾爺ちゃんの時代に財をなした一族のような、変なゆとりを感じる時がある。特に富岡みたいな町は典型的にそうですね。
 
 
 また、「小樽」という街全体が「歴史的建造物」であると言えないこともない。
 1994年に小樽市教育委員会から発行された『小樽市の歴史的建造物』という本を、ここのところ、毎日片手に持ち歩いて(ちょっと大きすぎるけど…)読んでいます。1992年に行われた建造物の実態調査をまとめたものなのですが、これがとてつもなく面白い。実際に写真撮影の際のガイドブックにもなりうる実用性も兼ね備えているし、「歴史的建造物」という視点から小樽の歴史を書き込んでいるところも興味深い。とても勉強になる。例えば、
 
 水天宮の丘は、もともとは孤立の丘でなく、背後の花園地区の丘陵とつながっていた。明治13年、鉄道が開通した当初は、堀割ではなく、約170mのトンネルを設けていた。ついでに言うと、現南小樽駅の所にも約106mのトンネルがあり、現住吉地区の台地が延びていた。
 
 なるほどね。そうなのかぁ…もともとは、この日本海沿いの後志地方のどこにでも見かける、台地状になって海へ雪崩れ落ちる普通の地形だったのか。
 小樽湾(石狩湾)の入り江。山から海に注ぐ川で区切られた台地を横切るように通された鉄道線路。最初はトンネルで通していたが、このトンネルを掘り崩してしまう。さらに切り崩しを進めて、出た土砂は海岸部の埋め立てに使う。土地を切り開いたところに商店や劇場が建ちはじめ繁華街が形成される。また、埋め立てが進むにつれて港湾部の形がしっかりしたものとなってくる。現在の小樽最大の売りものである「運河」や「倉庫」などの石造建築群が建ちはじめる。現在の市街地地域は、こうして、かなり人工的な努力の末に形作られたものなのですね。
 
 明治36年、於古発(おこばち)川上流地区の開発のため、於古発川に沿って富岡・緑地区をさかのぼる環状道路が完成する。小樽公園裏を通り、現・松ヶ枝1丁目(南廓とよばれた遊廓地区)に達し、さらに入船地区と結ぶ道路が完成する。現在の緑山手線と入船線とを連続する道路である。小樽の戦前の住宅街を代表する緑地区と富岡地区はこうして形成される。
 
 繁華街のひとまわり外側が「官庁街」かな。で、そこは新開地ですから、そこからもうひとまわり外側というのはない。もう、畑や天狗山なんですね。今となってはなかなか想像しにくい風景ですけど。だって、小樽短大なんて、この道路がなかったら一日たりとて生きて行かれないわけですから。あまりにも「小樽」として身についてしまっているので、手宮から稲穂あたりくらいまでが「小樽」だった小樽(変な言い方だが…)って想像しにくいですよ。
 でも、山だった。そこに「環状道路」を通した。5年後の明治44年には小樽商科大学(当時の小樽高等商業学校)が建てられたことも相まって、富岡・緑の高級住宅地化はどんどん進行して行く。繁華街の金持ちたちの、「仕事は街で、住居は郊外で、(ついでに言えば、お遊びは「南廓」で…)」といった棲み分けが確立して行く。こういう感覚の発生が都会人っぽくなって行く第一歩なんです。
 要するに、緑・富岡って、当時の「桜・望洋台」だったのね…というのが私の受けた印象でした。だから、今、望洋台に建っているしゃれた家だって、五十年後には「旧高田邸」ですよ。私の家だって五十年後には「新谷保人・小樽最初の住居」なんですよ。(笑) 民家じゃないけれど、この論文には参考資料として『後志国繁栄図録』から「南廓」の建物の図が掲載されているんですけど、これは一見の価値あり。もう、『千と千尋の神隠し』に出てきた「油屋」そのもの! いやー、「竜宮閣」といい、この「南廓」といい、こんな非日常の狂気パワーが、富岡に代表されるような日常感覚のすぐ隣りにあるなんて、なんて面白い街なんだ。都会ですね…
 
 
 なぜ、田上義也(たのうえ・よしや)の作品をあれこれ調べ始めたのか…については次回で。小樽に残っている田上の建築作品は民家が3軒ですので、これも、1軒につき1回、全3回のシリーズになるかと思います。全3回、この連休中に仕上げる予定です。
 
 今、5月11日の「啄木忌の集い」で配られる『小樽啄木会だより』第4号の制作のお手伝いをしています。(なかなかいい出来なので、ぜひ「集い」にも来て手にとって見てください。なんと!国文関係には珍しい「横組み」の出版物です。これが、なかなか…啄木がイメージしていた「モダンさ」って、こういう感じだったのかなぁと思わせる、面白い効果を生みだしています。)
 で、その第4号に掲載されている『在りし日の啄木』の著者「高田紅果」についても、小樽啄木会の方々からいろいろ教わることが多いのですね。その中で、「紅果」の家が今でも小樽に残っているらしい…という話題も出てきたのです。で、さらに、なんと、その設計者は「田上義也」らしい…という話になって俄然色めきたったのでした。もう、第4号の表紙はこれしかないだろう!と。調べて(それで『小樽市の歴史的建造物』も読んでいたのですが)行く内にもっとすごい発見がありました。この「旧高田邸」が田上義也の民家建築の第1号作品だったのです。
 本当に「小樽」には驚かされることが多い。今でも(持ち主は高田家ではないが)人が住んでいる現役の家屋です。残りの2軒も、そう。こういうところが、本当に「小樽」の底力なのでしょうね。単なる観賞用のお人形じゃないんだよ…というところが。
 
 
 
 
■4月21日の日曜日にNHK衛星第2でやっていた「尾崎豊」特番、良かったですね。派手なタレントも呼ばず、パフォーマンスもなく、ただひたすら視聴者からの手紙朗読とビデオのフルバージョン映像に徹した今年の作戦、大正解だったのではないでしょうか。これなら、3時間でも4時間でもやってほしい。2時間、13曲では少なすぎる。あの曲はやらないのか、この曲が入っていない…といった場面が多々ありました。まあ、ライブ映像で残っているものという条件が入りますから、なかなかレコードからの選曲とはちがうのでしょうけど。
 
■「大阪球場」の映像が多かったような印象が。ライブとしての出来がいいんでしょうか。私が好きなビデオはデビューの「新宿ルイード」のものなのですが、今回は、ここから『ダンスホール』を選んできましたね。うーん、ギター、難しそう。リード・ギターの人の方をしきりに見て、音を外さないように真剣な表情の18歳の尾崎。そう、この時代の音はちょっとコツがいるんです。『ダンスホール』のイントロでも使っている「Gメジャー9」とか… この時代の音にはナインス・コードを使った細かい展開が入ってきます。この時代、ほんの数年の間だけだったけれど、突発的にこの音が一世風靡したのですね。ダニー・オキーフの音が。
 




 
■ダニー・オキーフ。1970年代のシンガー・ソングライターのブームからはちょっと遅れ、1980年代のボズ・スキャッグスみたいなAORの波ともちょっとちがう。ほんとにポツンと孤独に存在していたミュージシャンです。ベストテンを賑わすようなパッとしたヒット曲もなく、地味に5〜6枚のレコードを出して、1990年代、20世紀の黄昏の頃には消息不明になってしまった。
 
■そのダニー・オキーフが1975年に出したレコードが、この『ソー・ロング・ハリー・トゥルーマン』。「ハリー・トゥルーマン」ってのは、「Harry Truman」第33代アメリカ大統領です。というより、日本人にとっては広島・長崎に原爆を落としたアメリカ大統領として記憶されているでしょうか。で、この「1975年」というのは、アメリカ軍がヴェトナム戦争からの撤退を始めた年でもあるのですね。そんな時代相が込められたといえば込められている1枚です、きっと。当時のレコードA面、『Quits』から『The Kid/The Last Days』までの曲の流れなんて、もう、美しい!の一言です。ビートルズの『アビー・ロード』B面より、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』より素晴らしいと私は本気で思ってる。真面目な人だから、きっと本気で「美しいもの」を作ろうとして作ったのではないでしょうか。そして、夢は報われた。
 
■ガルシア・ロルカの詩の一節
  Pasan caballos negros
  y gente siniestra
  porlos hondos caminos
  de la guitarra
  De este guitarra.

(黒い馬と邪悪な男たちが路を通る
ギターの奥
このギターの奥の路を通る)
 
を曲の中で口ずさむ『The Kid』。美しい… 何度聴いても美しい…
 
■話は尾崎に戻りますけれど、21日の特番で、もうひとつ印象に残った曲が。それは『街の風景』という曲です。正規盤は普通のロックンロールのビートでやっているんですけれど、ライブは、これをスローなブルース…、というか、ロッカ・バラード風にやっているのですね。これは、ちょっと鳥肌ものの展開でした。『十五の夜』の、だんだんテンポをアップしてゆくヴォーカルといい、いったい尾崎はどこでこんなロックの正統テクニックを身に付けたのだろう?と不思議な思いにとらわれますね。なにか、単なる学習じゃない、声(詩)をビートにのせる…という、ロックのいちばん基本的なところが生まれつきの天才なのではないかと思います。
 
■美しい曲って何なのでしょうね。アメリカ人なら誰だって歌える唄、『アメリカン・パイ』の中でドン・マクリーンは歌っています。「バディ・ホリーが(飛行機事故で)死んだ日、俺たちのロックンロールは終わってしまったんだ…」と。飛行機事故では、バディ・ホリーだけじゃなく、いっしょに乗ってたリッチー・バレンスという歌手も死んでいるんですけれど、なんか、私には、尾崎の歌は、「バディ・ホリー」的な若さと「リッチー・バレンス」的なラブ・ソングのふたつをいっぺんに失ってしまった「日本のロックが死んだ日」みたいな感じです。<新谷>