スワン社HP Northern songs 2001年8月11日号

 
 
モーニン・アピーズ・ミュージック
《速報「道の駅」2001 第6回》
 
新谷 保人
 

 7月の最後になって「灯台スタンプラリー」が急きょ入ってきたため、多少、コースの美しさが損なわれるかもしれません。なるべく重複を避けて、でも、なおかつ新コースの編成が斬新であるような道を選びたい。
 
北海道地区「道の駅」連絡会

7月28日(土)
(小樽)→J石狩灯台→K金比羅岬灯台→8.富士見→(サロベツ)→(枝幸泊)
7月29日(日)
(枝幸)→28.マリーンアイランド岡島→54.さるふつ公園→L宗谷岬灯台→(サロベツ)→32.ピンネシリ→12.おといねっぷ→5.びふか→(小樽)

 

 まずは、前回の続き、渡辺淳一『リラ冷えの街』でも描かれた「サロベツ原野」まで北上です。いつもなら、ここはまず、なんなく7月28日のスタートに「I小樽・日和山灯台」を入れて、行きがけの駄賃でスタンプを稼ぐ…といった場面なのですが、今回は、珍しく同乗者がいたり、29日が参議院議員選挙の投票日であったりする事情がありまして、そういう無茶は一切ナシの健康ドライブでした。

 「灯台スタンプラリー」始めるようになってから、ドライブ中の風景のあちこちに「灯台」を探すようになりました。そうやって見てみると、灯台って、どこにでもあるもんなんですね。そして、どれも同じようなもんだろうと思っていた灯台にも、美形の灯台とか、何か訴えかけるようなイメージ豊かな灯台とか、いろんな灯台があるもんだなぁ…ということも感じます。
 北海道に限定して言えば、いちばん美しい灯台は、やっぱり私は「石狩灯台」だと思いますね。赤白ツートンの一般的タイプですが、そのツートンの比率が良いのか、まわりの風景に対して灯台の大きさや形がぴったしなのか(かなり遠望が効く…)、よく理由はわからないのだけど、とにかく美しい。いたるところに同型の赤白ツートンはいっぱいあるのだけれど、「石狩灯台」に感じるような美しさを他で感じることはないですね。あれだけ、頭抜けています。
 で、断崖絶壁型(←私が勝手にそう呼んでいるだけですが)ならば、室蘭の「チキウ岬灯台」かな。陸側からは、なかなかその華麗さがわかりづらいのですが、あれ、海の船から見たら相当な美しさではないでしょうか。形や色が同じ、江差の「鴎島灯台」も、断崖絶壁ではないが美しい。
 孤立無援型(←私が勝手にそう呼んでる)というタイプもあって、この手では、網走の「能取岬灯台」と根室の「納沙布岬灯台」が双璧です。メッセージ性が強い。「納沙布」は、やっぱり北方四島と相対しているからでしょうね。また、「能取岬」は、その意味するメッセージがなにか全然わからないのだけど、意味なく凄い…という印象です。岬の突端の青空に黒い塔がスドーンと建っているんですから!初めて見た時は何事かと思ったよ。
 あと、今は亡き「美瑛デッカ」。今年の春でとり壊されてしまったんですけれど、ほんと残念です。あれも、シンボル度数、高かったなぁ…今頃になって思い出すわけなんですけれど、なんか、あれ、炭坑とか国鉄とか、時代にとり残されて滅びてゆくものがよく持っている、奇妙な楽天性を体現していましたよね。いい奴だった…生きていたら、いい友だちになれたかもしれない。

 

 サロベツもまた、いつものサロベツ原野ではありました。オホーツクもまた、いつもの人気のないオホーツクの海岸ではありました。ちょっと霞んではいたけれど樺太も見えた。
 宗谷岬から樺太の突端まではわずかに43q。船だと、「稚内−コルサコフ(大泊)」間で5時間半。ほぼ、津軽海峡と同じくらいの感じでしょうか。以前、NHKの朝ドラ『私の青空』の舞台になった津軽海峡。青森県の大間崎から函館までの距離が約40qですから、あんな感じで、間宮海峡の向こうの「樺太」が目前に迫っている。
 そういえば、『私の青空』でも、大間崎の人間が東京へ出て行くって時の場面、船でいったん函館に出て、函館空港から飛行機で羽田に行くって方法をとっていましたね。そういう生活圏や文化圏なんだろうなぁ。同じようなことが、やっぱり間宮海峡にもあったであろうことは容易に想像できる。

 大江健三郎の小説に、『幸福な若いギリアク人』という、意味もオチもよくわからない不思議な小説があります。いったい何がどうして大江健三郎はこの小説を書く気になったのだろう?というような小説なんですけれど、その、あまりにもあっけらかんとした意味のなさ故に、かえって何故か心にひっかかって残る…という不思議な小説。
 一応、筋書きは、斜里(しゃり)町あたりに住んでいるギリヤークの血をひく若者が、流れてきた日本人の男のソ連領(北方四島)への密出国の手伝いをする話です。だけど、男が何なのか、なぜソ連に密出国するのか、そういう小説的な約束事には大江健三郎は(わざと?)無頓着なのか、曖昧にしか書いていない。逆に、ギリヤークの長老に仕事を休んで会いに行ったりとか、密出国の様子とか、細かいディテールの方が印象に残る小品です。
 その、北方四島への密出国、なかなか凄い。ボートで男をソ連領内へ入れると、その若いギリアク人はざぶんと海に飛び込んじゃうのね。わざと「漂流」するわけです。で、漂流しているところを日本の船に助けられる。この時も、釧路の密漁船になんなく救助されて、釧路港に上がり、また斜里の製材工場の日常に帰ってくるんです。
 この技は、水上勉も『飢餓海峡』で使っていますね。犯人の犬飼多吉が、青函連絡船「洞爺丸」の遭難者救助に乗じて、台風の津軽海峡にボートを出し、途中でボートを捨てて(証拠を消して)海に飛び込んで青森県側の仏ヶ浦海岸に流れ着く…という、あの有名な場面です。

 うーん、北朝鮮の工作員も、日本海の沖合までは船や潜水艦でやって来て、最後の詰めはゴムボートやシュノーケルの潜りでの上陸だっていうから、この「途中で海に飛び込む」作戦というのは、日本を取りまく全ての海に共通する一般常識なのかもしれませんね。飛び込んでしまえば、向こう岸に行きたい意志のある奴は必ず行ける…という。(笑)
 樺太(間宮海峡)あたりになると、さすがに水が冷たくて無理なのかと今までは思っていたけれど、いや、なかなかどうして、全然問題ないみたいです。以前、書いたことがある、猿払(さるふつ)沖のロシア客船「インディギルカ号」の遭難なんて、考えてみたら、真冬の12月23日かなにかクリスマス前後のあたりの事件ですからね。そんな吹雪の冷たい海でも約400人の人を救助したっていうんだから。人間って、偉大です。

 

 大江健三郎には、もうひとつ、礼文島を舞台にして書いた『青年の汚名』という小説があります。こっちの方は有名。『ギリアク人』より、はるかに知名度が高い。で、私も、ああ「青年の汚名」ね…という感じで、この原稿に取り込もうとしたのですけれど、いざ書こうとしたら、どんな話だったか全然思い出せない。思い出せないはずなんです、読んでいないのだから…
 恥ずかしい!初期の大江健三郎作品はみんな読んでいると思っていたのに、けっこう抜けている作品があることを知って、プライドがちょっとだけ傷ついたところです。

 というわけで、今、読んでいるところ。

 なかなかカッコいいじゃないの! いにしえの手塩アイヌと宗谷アイヌの戦い。古戦場。荒若アイヌの頭蓋骨を拾う鶴屋老人… このクラシックな造り!いかにも物語然としたイントロには、ちょっとクラッと来ましたよ。やっぱり、若い時の大江健三郎って、小説が上手いなあ!同じ年齢(とし)で比べたら、中上健次よりやっぱり上かもしれない。24歳にして、この『青年の汚名』を書き上げているなんて、怖ろしいばかりの才能ですね。

 あと、こんな鰊長者もいたんだなぁ…という感想。
 小樽あたりに住んでいると、「ある日、鰊が来なくなったんだよなぁ…」とか言ってボーッと半世紀浜に立ちつくしているような老人しか北海道・日本海側にはいないんじゃないかという気になります。陸(おか)に上がるわけでもない、養殖実験を始めるわけでもない、ただ浜に立ちつくして昔の幸福を懐かしんでは人生が終わってしまった…といった感じの弱い人間ばっかりだ!という偏見が私には(北海道の年寄りに対して)あるんですけれど、こうやって、「いや、そうではない!」というアンチテーゼをしっかり出されると、やっぱり嬉しいですね。
 今、北海道は不況の真っ最中なんだそうで、このタイプの年寄りがやたら目につくのは本当です。鰊でも、石炭でも、公共土木事業でも、その精神構造はまったく同じで、ある日ぱったりと福の神が来なくなると、とたんに同じように老いさらばえて行く。昔のことばかりブツブツ言っては、今を生きる何の役にも立たない。でも、選挙権の一票だけはしっかり手放しませんよ…というような。
 そうかといって、別に、要領のいい内地のジジイたちみたいに、簡単に転職できたり(←天職ってもんがないのか…)新技術を導入したりすることが素晴らしいだなんて、これっぽっちも思わない私みたいな人間には、ほんと、最近はデッドロックというか、こういう田舎メンタリティをどうしていいのかわからねえよ!というところがあったんですけどね。だからこそですが、こういう時代だからこその「鶴屋老人」という地縛霊の浮上という気がしています。

 
 

 

8月11日(土)
(小樽)→(オロフレ峠)→Dチキウ岬灯台→(噴火湾)→23.YOU・遊・もり→62.つどーる・プラザ・さわら→E恵山岬灯台→61.なとわ・えさん→19.あっさぶ→25.ルート229元和台→21.てっくいランド大成→H弁慶岬灯台→I日和山灯台→(小樽)

 

 オロフレ峠なんて通ったの、何十年ぶりでしょうか。小・中学校の遠足以来じゃないか… 室蘭に出るのに、毎度毎度、倶知安〜伊達経由を使うのも飽きてしまった。で、ちょっと遠回りになるけどオロフレ峠経由にしたわけです。室蘭手前の海岸線、イタンキ浜というんですけれど、なかなかドライブにはいいですよ。「チキウ岬灯台」のある地球岬もいい。
 …というようなこと、内地からの観光客の方がよく知っているんですよね。私ら、道民は、親戚でもいない限り、なかなかあっちには行かないから。なんたって、どツボの「洞爺湖」だの「登別温泉」でしょう。東京の人間が好きこのんで「熱海」や「伊東」に行かないように、私たちも「登別」に独りで行ったりしません。
 今年の「道の駅2001」は特別です。意識して、そういう「知ってるよ」「わかっているよ」と思っている北海道の物事に再検証の篩をかけています。まあ、あんまり生産的ではないかもしれないが…(たしかに今の不況を救う特効薬にはならんでしょうが…) ただ、私は、一人でも多くの道民がこういう基礎的なポジションから物事の理解を始める努力はやっぱり必要なのではないかと思っています。そういう努力がない土壌で、いつもの如く「試される大地!」などといつもの見栄を切ったところで、もう偏差値低い虚弱体質ってことはバレバレなんだよ…と思っていますけどね。

 噴火湾(内浦湾)をぐるーっとまわって、函館方面へ。室蘭と向こう側の駒ヶ岳までの間も直線距離で40qくらい。そこをたらたら3〜4時間かけて噴火湾をまわって行くのはちょっとだけ切なかったです。今年の北海道の道路はいたるところで毎日スピード違反検挙のねずみ捕りをやっていて(←警察は金がないの?現金収入がほしいのかな…)迂闊にスピードも出せません。ようやく恵山(えさん)岬へ。もう昼の1時をすぎてしまった。
 恵山の岬をまわった時から聴こえてきた「FMいるか」、厚沢部(あっさぶ)町の山の中に入ったとたん、フェイド・アウトです。函館の街は「FMいるか」聴けるのがいつもの楽しみなんですけどね。今回は余裕がなくて残念。稚内の「FMわっぴー」とか、函館の「FMいるか」とか、わりとご贔屓です。行けば、多少ノイズが入っていても、聴ける間はずーっと聴いています。でも、海岸部のFMって、なんで面白いのかな…

 
 

 

 突然ですけど、ここで大正12年(1923年)の北海道にバック・トゥ・ザ・フューチャーします。季節がちょうど7月の終わりから8月はじめですので、お盆特集って感じで、ちょっとだけ「宮沢賢治」のこと、ノートに書きとめておきたい。

 こんなやみよののはらのなかをゆくときは
 客車のまどはみんな水族館の窓になる    
(青森挽歌)

 この時の賢治、27歳。
 22歳で大学(盛岡高等農林)を卒業したはいいけれど、その後、研究生とは名ばかりで、家業の古着屋の番台に座りつけさせられている。自分も肋膜炎を患ったり、トシの結核がついに発病し入院する日々。こんな毎日を続けていては、学生時代、親友・保阪嘉内や「アザリア」同人たちと誓った約束「まことのひとびとのさいわひ」からどんどん自分は遠のいていってしまう…という切迫感で、何度か東京・国柱会への家出をくり返す。
 かなり、行き場のない日々…という感じなのですけれどね、この数年間というものは。学校出て、みんなが社会人としての試練に第一歩を踏み出している時に、自分は、煮え切らなく「研究生」なんて形でまだ学生を引きずっている。家業の手伝いなんてもんじゃない、結局は、宮沢家の「ひきこもり」の道楽息子にすぎないし。そして、肋膜炎やトシの発病は、直接に「肺病一族」としての宮沢家の血筋をじわじわと思い起こさせる。賢治自身も「生きられる時間はそんなに多くはない」という自覚はあったでしょうね。病床のトシの様子を見ていれば、自分も早晩こうなると考えない方がおかしい。有名な『永訣の朝』や『無声慟哭』という詩はそういう詩なんです。
 その宮沢トシが大正11年(1922年)11月に死去。また、その前年の大正10年(1921年)7月には、学生時代「どこまでも一緒に行かう」と誓い合った「カンパネルラ」保阪嘉内とも、その宗教観のちがいから決別をしてしまっている。職こそ、2年前に花巻農学校の教師となって、一応社会的な格好はついているけれど、内実は、出口なしのスランプ状態というのが正しいところなのではないでしょうか。
 1922年5月の『小岩井農場』という詩、私も好きで時々読み返したりしますが、なんというか、この閉塞の日常をどう凌いで行ったらいいのか…という努力の詩として読んでいるような時がありますね。ですから、「ラリックス ラリックス いよいよ青く/雲はますます縮れてひかり/わたくしはかつきりみちをまがる」という有名なフレーズも好きですけれど、読者の誰にとっても意味のないような「過燐酸石灰のヅツク袋/水溶十九と書いてある/学校のは十五%だ」なんてフレーズも、私は同じくらい好きなんです。じつに意味がない…(他人にとっては、です) でも、みんな、こうやって自分にしかわからない言葉で、ひそかに自分を持ちこたえるのではないでしょうか。そんな宮沢賢治も好きなのです。

 

7月31日
花巻:14時28分発→(東北本線)→青森:22時10分着
青森:23時55分発→(青函連絡船)→函館:6時10分着
8月1日
函館:13時49分発→(室蘭本線)→旭川:4時55分着
8月2日
旭川:11時54分発→(宗谷本線)→稚内:21時14分着
稚内:23時30分発→(稚泊連絡船)→大泊:7時30分着
8月3日
大泊:7時30分発→(樺太庁鉄道)→豊原:12時00分着

 

 トシの死から9ヶ月。花巻農学校生徒の豊原町王子製紙株式会社への就職のため、学校に樺太行きを願い出た賢治の心理には、もちろん、まだ癒えていないトシの死のショックからの回復という目的が大きかったと思います。が、しかし、私には、それだけじゃない、賢治にいつもまとわりついている人生のスランプからの脱出という願いが絶対あったのではないかと思っています。27歳の夏。当時の「27歳」は、今の「四十の厄年」くらいの重さでしょうか。(人生五十年の時代ですからね…) なにかを決心しなければいけない年齢ではあったのです。

 こんなやみよののはらのなかをゆくときは
 客車のまどはみんな水族館の窓になる

 花巻を午後2時28分に出発した列車は、岩手を抜けて青森県に入って夕暮れを迎え、さらに風景は夜の中に溶け込んで行く。あたりが暗くなってきて、いつもの東京との行き来にはなかった感覚(宮沢賢治が《北》へ向かうのは、これが人生二度目。最初が17歳の時の北海道修学旅行ですから、実質的には、これが、自分の意志で《北》をめざす初めての旅…)の到来に、ふるえる手が書き始めた一行がこれでした。

 わたくしの汽車は北へ北へ走ってゐるはづなのに
 ここではみなみへかけている

 旅の行程表を作ってみると、函館と旭川で数時間の朝食をとる以外は、ずーっと樺太・豊原をめざして車中の人であったことがわかります。かなりの強行軍。でも、意識して身体を《北》へ持っていかないと、すぐに心は《みなみ》の街のあれこれを思い出しては考えている自分に気がつくわけで。これではいけない…こうやってダラダラ自分のことを考えているのでは花巻にいる時と変わらない…『青森挽歌』は、全編、こういう思考の行ったり来たりです。

 まだいってゐるのか
 もうぢきよるはあけるのに
 すべてあるがごとくにあり
 かがやくごとくにかがやくもの

 『青森挽歌』のエンディング近く。青函連絡船もすでに函館湾に入りはじめたのでしょうか。この時期の北海道は午前3時すぎくらいで空が明るくなりはじめます。津軽海峡上に日が昇って、函館の街が近づいてきて、賢治の手帳もいったんひと休みという形をとっています。

 でも、近づいてきているのは、実際は「大泊」の街なんです。

 じつは、8月3日の朝7時です。次の『オホーツク挽歌』が8月4日の樺太・栄浜からいきなり始まることから考えて、じつは、宮沢賢治は三日三晩、青森から始まって北海道内〜稚泊連絡船に至る《夜》の間中、ずーっとトシのことをあれこれ考えている状態だったのです。「青森」という名前が入っているために騙されてしまいますが、じつは「北海道挽歌」なんです。言い換えれば、8月3日の朝7時の大泊までが《日本》だった…というか。トシとか保阪嘉内とか父・政次郎のこととか、内地のいろんなものを引きずってここまで生きてきたわけです。
 

8月4日
豊原:7時45分発→(樺太庁鉄道)→栄浜:10時35分着
栄浜:16時35分発→(樺太庁鉄道)→豊原:20時10分着

 

 『オホーツク挽歌』に入ると、いきなり場面は、樺太・豊原市の向こう、栄浜の海岸から始まります。

 モーニンググローリのそのグローリ  (オホーツク挽歌)

 昔、若かった時、私は、『青森挽歌』と次の『オホーツク挽歌』の間にある、断層というか、転調というか、その落差が激しくて、ほとんど『青森挽歌』の方しか記憶に残らないような状態でしたね。詩集『春と修羅』の中で、この章の総合タイトルは、わざわざ「オホーツク挽歌」と名づけられている章であるにもかかわらず、記憶に残るのは『青森挽歌』と『噴火湾』だけなんです。全然、《オホーツク》や《樺太》というものに想像力が至らない。
 結局、《樺太》というイメージがわからないから、意識の中から『オホーツク挽歌』〜『樺太鉄道』〜『鈴谷平原』という並びを飛ばしてしまうのですね。あるいは、見知った《北海道》イメージの中に無理矢理押し込めて読んでしまうとか…でも、そこにはやっぱり無理があって、なにか《北海道》ではないイメージの氾濫を持てあましてしまって、中途半端な理解(『青森挽歌』に比べると「樺太」編はテンションが落ちる…などという厚顔無恥)ですませてしまっていたのでした。

 ここはもう《樺太》なんだということに思いが至れば、もっと深く理解できたものを!

 それらの二つの青いいろは
 どちらもとし子のもつてゐた特性だ
 わたくしが樺太のひとのない海岸を
 ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
 とし子はあの青いところのはてにゐて
 なにをしてゐるのかわからない

 『青森挽歌』で、あれだけ「とし子は…」「とし子は…」と言っていたのが、ここでは、憑きものが落ちたみたいに、「とし子」は遠く「あの青いところのはて」に行ってしまいます。「とし子」のことを語る口数もぐっと減ってしまう。
 「あの青いところのはて」という表現、いいですね。なにか知らないけれど涙が出ます。《樺太》よりも、もっと遠い北の方でしょうか。あるいは、《樺太》まで来てしまっても、まだ、内地のあれこれを思い出していることのむなしさを詠ったものでしょうか。

 

8月7日
豊原:16時25分発→(樺太庁鉄道)→大泊:18時30分着
大泊:21時00分発→(稚泊連絡船)→稚内:5時00分着

 

 これはサガレンの古くからの誰かだ  (鈴谷平原)

 もはや、『樺太鉄道』からは帰り道です。

 8月8日の朝5時に稚内港に着いてから、8月11日の朝7時半に青函連絡船に乗り込むまでの3日間の賢治の足どりは不明なのですが、おそらくは、行きよりは緩いペースで函館まで下ってきたのではないかと思われます。そして、噴火湾を通ったのは8月11日の夜明け前。

 一千九百二十三年の
 とし子はやさしく眼をみひらいて
 透明薔薇の身熱から
 青い林をかんがへてゐる
  
(中略)
 もう明けがたに遠くない
 崖の木や草も明らかに見え
 車室の軋りもいつかかすれ     
(噴火湾)

 どの部分が良い…という風には語れないのですが、『噴火湾(ノクターン)』という詩は、暗く沈んだことばのリズムが心を打つ、いい詩ですね。「一千九百二十三年のとし子」といったザクッとした語感もすばらしい。
 

8月11日
函館:7時30分発→(青函連絡船)→青森:12時00分着
青森:14時35分発→(東北本線)→盛岡:20時59分着
盛岡→(徒歩)→花巻

 

 『春と修羅』ラストの章「風景とオルゴール」につながる基調は、おそらく、この『噴火湾』あたりで決定されたと言ってもいいでしょう。ここからは、私たちがよく知っている、あの、揺るぎない《宮沢賢治》が始まります。技術的には、もう申し分のないハイテク化。『小岩井農場』でやっていたような自己の持ちこたえ方なんか、もう使う必要がなくなったのではないでしょうか。
 言葉を換えれば、青年期アドレッセンスがこの旅で終わった…ということです。子どもだった《宮沢賢治》は『銀河鉄道の夜』のジョバンニになってしまった。そして今、『銀河鉄道の夜』を書き始めつつある(「風景とオルゴール」詩編は『銀河鉄道の夜』につながるアイデアで満ちあふれています)宮沢賢治自体は、哀しいことかもしれないけれど、充分に、少年の「ジョバンニ」や「カンパネルラ」を対象化して見つめることができる大人です。

 
 

 
2001年8月11日号 あとがき

■7月28日の朝は、市役所の不在者投票からスタートしました。今回の選挙、北海道地方の「投票に行こう!」ポスターが、コンサドーレ札幌のフォワード・播戸竜二を起用しているんですね。えらいカッコいいポスターなんです。(ちなみに、テレビCMも「播戸」。音楽が「GAKU−MC」という豪華さ。) 当然、ゴーマンかまして、「不在者投票に来てやったんだから、あのポスター1枚くれ!」(←実際には、もっとへりくだった言葉だったが…)と言わざるをえないわけです。でも、小樽の選挙管理委員会はえらかった!朝っぱらからの、こんな不躾な選挙民に対しても厭がることなく、笑顔で、ポスターを各人に1枚ずつ、計2枚もくれたんだぜ。えらいなぁ。今までやってきた選挙の中で、バカタレントの総決起集会だった今回の選挙にしては、俺的には、これがいちばんいい選挙だったよ。

■8月8日、小樽文学館「小樽論・1」に行ってきました。《私の小樽》、そして《私のお宝》、今回の特設展も「行って得した…」って感じですね。特に、《お宝》のところにあった永山則夫の「時計」にはそう感じました。行く前までは、私は、普通のサラリーマンがしているような腕時計を、それも、父とか兄とかから譲り受けたようなちょっと古めの腕時計なんかを想像していたのですけれど、実際は全然ちがった。その時計を見ていると、永山則夫の短かった青春(人生)が何だったのか、どんなもんだったのか…を思わずにはいられません。これだけは、行って、じかに目にしておいてよかった…と思いましたね。小樽だ!

■今回の『Northern songs』、宮沢賢治のところは、大部分を、小樽文学館発行『宮沢賢治・一通の復命書』特別展カタログのお世話になりました。次回でも吉田一穂について書く予定ですので、1993年夏に小樽文学館で行われた「海の聖母−詩人・吉田一穂展」のカタログを使わせていただきます。同じ理由で、今、1999年に札幌の北海道立文学館で行われた「吉田一穂とその時代」企画展カタログも参照しているところなんですけど、こっちの方はなんかパッとしない。あの時の展示も、思い出しているのだけど、つい一昨年の企画展なのに何の印象も映像も浮かんでこない。同じ「文学館」でも、ずいぶんちがうもんですね。いったい何が楽しくて、道立は「吉田一穂」展、やったのでしょう?

■8月14日、「北海道国際ユースサッカー大会2001」決勝を観に、遅ればせながら札幌ドーム初見参。ユースの試合なんで全然混んでいません。ハーフタイム毎に、計4回、ぐるっとドーム一回り席を替えて観てみました。来年のワールドカップで私が座るはずだった席にも座りましたよ。(←未練…)

■なんかなぁ…(田舎者だからかもしれないけれど)ドームでサッカー観るのってヘンな感じ。芝のグランドで、雨が降っても雪が降ってもそういう条件の中でやるのが信条のスポーツを、空調の利いた無風の屋内に持ってくる…っていう発想、やはりどこか不健康。夏の青空が広がっている札幌の午後に、わざわざ照明が煌々とつけられた屋内でサッカーを観ているのはヘンです。ドーム人気も、道民全員、観るべき人たちが一巡したら、その後は急速に興味を失われてゆくのではないか。プロレスとかコンサートとか屋内を基本とする興業しか残らないのではないか…とか考えたりしますが、まあ、わからない。雪がありえる10月〜11月になってくると、その有難味に気がつくのかもしれないけれど。

■『千と千尋の神隠し』と『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』の発表時期が重なったため、2つの強いもののぶつかり合いを避けるため、「渡辺淳一」だの、力が抜けるような本を間に挟んで読んでいたような気がする。「大江健三郎」もそういった意味では力抜きの1冊というエントリーだったのだが、予想外に(メッツの新庄みたいな感じで)大爆発したため、『ハリー・ポッター』読むのがずいぶん遅くなって今に至りました。でも、これはうれしい誤算ですね。8月はまだ半分残っています。イチローのごとく、私も、二塁で満足することなく、隙あらば三塁でもホームベースでも狙って突っ込んで行く覚悟です。<新谷>